前回は「「余は神である」と言った織田信長が若き日に「神頼みした」熱田神宮」の話でした。

熱田神宮にある「信長塀」は、桶狭間の戦いで大勝利した信長が奉納した塀です。

安土城を建築している頃には、「織田の天下」が確定しつつありました。

その頃に、

我は
神なり!
と言い出した織田信長。
流石にこの頃の信長の姿勢には、家臣団も驚いたでしょう。
天下の形成が固まりつつある頃、信長は、



余が日本を
統一し、海外へと攻め込む!
という明確なヴィジョンを持っていました。
具体的には、のちに秀吉が「継承した」朝鮮や明国への出撃を考えていたでしょう。
その織田信長が、まだ20代だった頃に「戦国の世に躍り出る」きっかけとなった桶狭間の戦い。
後の天下人である織田信長に、後の豊臣秀吉となる羽柴秀吉、さらに徳川家康(松平元康)まで関わっているこの戦い。
天下人三名が若き頃にオール参加した「稀有な戦い」にも関わらず、具体的な合戦の内容は諸説あります。
「日本史上最大の人物」の有力候補である、天才・織田信長。
その信長は、元々の性格もあるでしょうが、元亀・天正の戦いを乗り越えてゆく過程で、肥大化してゆきました。



私が
全てなのだ!
その織田信長ですが、若き頃の、桶狭間の戦いでの快勝においては、



熱田神宮の
ご利益のおかげです!
と塀を奉納したのでした。
元々、朝廷への多額の寄進をおこなっていた織田家。
それだけに、神宮の神に対して「お礼を申し上げる」気持ちは、本心にもあったでしょう。
当時も今も尾張地域で非常に有力な神宮である熱田神宮の「影響力を取り込みたかった」こともあるでしょう。


比較的簡素な木造建築ですが、神宮の風格を忍ばせてくれる建築です。


今も昔も、こうして「神宮にお願いする」たくさんの人たち。
その中に、かつての織田信長がいました。


周囲には関係すると思われる神社もあり、熱田神宮の影響力が分かります。
1560年に勃発した「桶狭間の戦い」は、戦国時代の勢力図を大きく変容させたのでした。
あの戦いがなかったら、後の織田家・織田信長の躍進はなかったのです。
そして、武田信玄・北条氏康・今川義元の甲相駿三国同盟は、戦国の世を変えたかもしれません。
戦国時代の寺社勢力というと、顕如が率いた一向宗がすぐに浮かびます。





仏敵・織田信長を
討滅せよ!
織田信長の「最大の敵」となった本願寺。
「神・仏などなんとも思わない」印象の織田信長ですが、好んで敵対勢力を増やしたいはずはありません。



本願寺とも
上手くやれたら・・・



私は、熱田神宮などの
神社とは良好な関係を持ってきた・・・



しかし、
宗教が国を収めるのは頂けない!
信長は、本願寺との間で「上手く織田家が上に立つ」方策を考えていたのでしょう。



まずは、
大坂の地が欲しい・・・



あのような良い場所を、
本願寺が保有しているのがおかしい!



大坂の地を
私に渡してください!
これに、本願寺・一向宗門徒は怒り心頭となってしまいます。



おのれ!



我らを
なんと思っているのだ!
そして、10年以上に渡る織田と本願寺・一向一揆の長い戦いとなりました。
熱田神宮を訪問すると、「無宗教者」であった織田信長の宗教観が垣間見えます。
ぜひ訪問してください。