織田信長が若き日に「神頼みした」熱田神宮〜周囲を敵に囲まれていた織田家・宿敵の斎藤家と今川家・「余は神である」と言い放った信長〜|戦国時代・尾張の織田家

前回は「織田信長が天下を見据えた岐阜城天主閣からの眺め」の話でした。

目次

信長が若き日に「神頼みした」熱田神宮

熱田神宮(新歴史紀行)

岐阜から名古屋へ向かい、熱田神宮へ行きました。

岐阜と名古屋は近く、在来線でも30分弱で、まさに「すぐそこ」です。

桶狭間の合戦で今川家に快勝し、徳川家康と同盟を結んだ織田信長。

戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

本格的に岐阜への侵攻を開始し、小牧山城へ居城を移します。

前の居城の清洲城は名古屋からやや岐阜寄りなので、当時は清洲城からも岐阜城は見えたのでしょう。

いつか稲葉山城を、
織田のものに!

と、信長は日々思っていたのでしょう。

周囲を敵に囲まれていた織田家:宿敵の斎藤家と今川家

熱田神宮(新歴史紀行)

桶狭間の合戦の際、信長とその一軍が願掛けによって勝利祈願した熱田神宮です。

いざ、今川軍に突撃する直前、この熱田神宮を訪れた若き織田信長及び織田家の軍勢。

「織田家が勝つ」と、
熱田神宮の神が宣言した!

という「芝居を打った」とも言われています。

熱田神宮の建築は、荘厳で綺麗な木造建築です。

「信長塀」という、信長の桶狭間の合戦に祈願したことを記念する塀もあります。

1560年の桶狭間の合戦の4年前には、妻の父で美濃王だった斎藤道三が息子義龍と戦い、敗死します。

戦国大名 斎藤道三(Wikipedia)

後に天下人となる信長。

当時、尾張国内にも対抗する勢力が残存し、強力な同盟者であった斎藤家とは道三敗死後、義龍と敵対していました。

戦国大名 斎藤義龍(Wikipedia)
1560年の織田家勢力図(別冊歴史人 「戦国武将の全国勢力変遷地図」KKベストセラーズ)

いかに尾張が豊かな国であったとはいえ、北に強力な斎藤家・東に今川家がいた織田家。

信長は、かなり苦しい状況であったでしょう。

義龍に、
今川・・・

挟まれては、
我々はかなり辛い・・・

そして、桶狭間の戦いでは若き羽柴秀吉も加わり、民衆の協力を得て今川家の諜報戦において、大きな成果をあげました。

「余は神である」と言い放った信長

桶狭間の戦い(Wikipedia 歌川豊宣画)

熱田神宮の話は、信長が創作した要素が多いです。

とはいえ、後に「自らが神」と言い出した信長が「若き日は神頼みをしていた」ということは面白い事実です。

熱田神宮の神に護られた織田家。

義元を
討て〜!

信長は「大軍率いる今川義元の首を獲る」という大戦果を挙げます。

義元の首を
獲ったぞ!

恐らくは「持てる力で万全を期していた」信長自身、「想定以上に上手く行き過ぎた」快勝を勝ち取ります。

そしてこの合戦を契機に、織田家は一気に飛躍してゆきます。

それまで、武田・上杉・毛利・北条・大友等よりも家格・軍事力は遥かに格下だった織田家。

辛うじて「経済力のみは比較できるレベル」だった織田家。

まだまだ、
武田・上杉には勝てない・・・

しかし、いつかは
我が織田が勝ってみせる!

当時、今川と同盟を結んでいたものの「いつかは駿河侵攻」の可能性を考えていた戦国の虎 武田信玄。

その信玄ですら、思いもしなかった戦いを、若者が成し遂げます。

戦国大名 武田晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

凄まじい
奇襲攻撃だ・・・

あの奇襲は、
私でも出来るかどうか・・・

信長・・・
侮れん若者だ!

そして、信長は突如雄飛し、戦国時代は新たな展開を迎えます。

戦国時代に新たなページを生み出した信長は、次々と覇業を成し遂げてゆきました。

そして、「織田の天下」が見えてきた頃には、

余は
神である・・・

と言い放った信長は「神を信じない人物」と思われています。

ところが、その信長も若き頃は熱田神宮の神を半ばは信じ、芝居を打って強敵・今川義元打倒に成功したのでした。

新歴史紀行

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