前回は「豊臣家の水軍の柱となった加藤嘉明〜急速に膨張した羽柴家の版図と経済力と軍事力・唐入り目指して水軍強化した秀吉〜」の話でした。
豊臣秀吉による天下統一:北条家の最後の抵抗
松山城は比較的小規模ですが、しっかりと作られた味わい深く、質実剛健な感じの城です。
内部の木造の構造もまだ残っていて、往時の雰囲気がよく分かります。
・姫路城(兵庫県姫路市)
・彦根城(滋賀県彦根市)
・犬山城(愛知県犬山市)
・松江城(島根県松江市)
・松本城(長野県松本市)
・丸亀城(香川県丸亀市)
・丸岡城(福井県坂井市)
・宇和島城(愛媛県宇和島市)
・備中松山城(岡山県高梁市)
・高知城(高知県高知市)
・弘前城(青森県弘前市)
・松山城(愛媛県松山市)
大変貴重な「現存12天守」の一つである松山城。
この剛直な雰囲気の城を築いた武将は、羽柴秀吉の家臣からスタートした戦国大名 加藤嘉明でした。
武勇だけでなく、軍略の才能もあった加藤嘉明。
秀吉に仕えて15年ほど経ち、豊臣秀吉の最後の敵となったのが「関東の覇王」北条氏政でした。
「豊臣に従え」
だと・・・
氏素性が
分からぬやつなどに従えるか!
仕方ないな・・・
従わぬなら討伐するまで!
北条家を
一気に叩き潰せ!
往年の「関東の覇者」であり続けた北条家は、豊臣家の大軍勢の前にあっさり滅亡しました。
・・・・・
そして、豊臣秀吉が天下を統一しました。
「信長の遺志」を引き継ぎ海外侵攻目論んだ秀吉
やっと
平和になった・・・
武将たちにとっては、「戦があってこそ戦功が立てられる」のでありました。
そして「戦があるからこそ、武将・武士たちの存在価値がある」が現実でした。
ところが、長らく悲惨な戦乱が続く中、
やはり、
平和が良いな・・・
と考える武将が多かったのが事実でしたが、そうではなかった人物が一人だけいました。
日本は統一したから、
海外へ攻め込むぞ!
一人秀吉のみが異様なテンションを持ち続けていたのでした。
次は
朝鮮・明だ!
えっ!
なんですとっ!
せっかく天下泰平になったのですが、秀吉は、
朝鮮と明を
我が手に!
日本を全国統一した余勢をもって、中国大陸へ乗り込むことを決めます。
この「中国大陸への侵攻」は、かつて「織田信長が考えていた」という説が有力です。
信長様の
子どもは排除したが・・・
私こそが、信長様の成し遂げられなかった
ことを実行する!
本来ならば「戦乱の世が終わって安心」ですが、まだまだ若い加藤嘉明。
我が水軍の活躍を
見せてやる!
そして、我が
加藤家を飛躍させてみせる!
加藤嘉明は大いに奮いました。
朝鮮侵攻の兵站線を守った加藤嘉明:緒戦の連戦連勝の行方
こうして、小早川隆景・小西行長らと水軍を率いて、文禄・慶長の役を戦います。
陸でも大活躍した小早川隆景や小西行長と比較して、加藤嘉明は水軍中心です。
秀吉に気に入られていた智勇兼備の小早川隆景は、陸に海にと大忙しでした。
陸でも海でも
我が小早川の武名を轟かせよう!
この小西行長が
陸の戦いの一方の大将だ!
私は
後方支援か・・・
順調に挑戦を突き進む加藤清正たち。
水軍と言っても、兵站線を担う後方支援活動がメインとなりました。
しかし、兵站線こそが
戦の要!
私が水軍をまとめているからこそ、
陸で虎之助(加藤)や隆景殿が安心して戦えるのだ!
私がいるから、
陸で勝ち続けているのだ!
軍需物資の輸送手配は、主に石田三成らの奉行が起案します。
それを実行して「兵站線を堅実なものにした」加藤嘉明たちの功績は、非常に大きいです。
朝鮮軍は、もう少し強力だと
思っていたが・・・
これは
楽勝だ!
元々は中国大陸からの文明を日本なりに解釈し、独自の文化・文明へと飛躍させてきた日本。
朝鮮を含む中国大陸は、いわば歴史的には兄弟のような存在でした。
見方によっては、日本にとっては「向こう(中国)が兄貴分」とも言えます。
そのため、朝鮮の力はともかく、中国の力は高く評価していた日本軍。
もっと明(中国)軍が
早い時期から朝鮮に加担すると思ったが・・・
意外にも、加藤清正・小西行長らが率いる日本軍は、猛烈な勢いで突き進みます。
まさに破竹の勢いだった日本軍。
これは、
勝てるぞ!
朝鮮軍を蹴散らす日本軍。
後方支援中心と思っていたところに、明の大軍が攻め寄せてきました。
そして、新たに朝鮮水軍を率いてきた優れた人物こそ、名将 李舜臣でした。
次回は上記リンクです。