前回は「羽柴秀吉 5〜『桶狭間の戦い』の秀吉〜」の話でした。

桶狭間・田楽狭間の戦いの時の秀吉の活躍に関しては、詳しいことは分かってなく、想像や創作の域を出ません。
戦前から長い間、「信長が今川義元を側面から奇襲した」という説が流布していました。
この説は、戦前の参謀本部の公式見解だったとも言われます。
最近は見直され「信長が正面攻撃をした」という説もあります。

今川義元が討たれた時、谷間にいたのか山上に陣取っていたかすら諸説あり、真相は不明です。
織田家は経済力が高く、今川家には及ばないものの8,000人ほど動員は可能だったでしょう。

それでも軍事力が劣り、25,000人の今川軍に対して平野での戦いではなく本陣を奇襲したことで勝利したのでしょう。
桶狭間の合戦ほど有名な大合戦の「奇襲なのか正面突破なのか」という基本的真相が不明であること。
それは、後の天下人の信長と秀吉が関わっている点で、とても不可解なことでもあります。

信長公記他で色々な描かれ方をしていますが、書籍によって実に様々です。

「戦いの真相」は不明なことが多く、多くは伝聞・二次情報によります。
戦国時代の合戦では、ベスト10入り確実の「桶狭間の合戦」。
その「真相が謎」というのは不思議です。
戦好き・軍略好きの武田信玄なら、諜報部隊を総動員しても調べて記録に残しそうです。
「謎の軍師 山本勘助(管介)が関わっていた説」もあります。

「山本勘助説」もまた後世の創作でしょう。
歴史を転換した極めた大きな合戦・事件にしては、謎が多すぎるのです。