前回は「織田信長の野望と夢を育んだ美濃国と岐阜城」の話でした。
天下を睨んだ織田信長と美濃国
現代でも遠くから眺めることができる岐阜城。
高いところに天主閣が見えます。
信長の頃は、さぞかし壮大な感じだったでしょう。
10年近い時間をかけて、ようやく美濃・稲葉山城を手に入れた織田信長。
ここから、
天下を臨むのだ!
信長が、「いつ頃から具体的に天下を意識したか」は諸説あります。
そもそも、「天下=五畿内」だった当時。
「天下を目指す=京都周辺を抑えて、号令する」がせいぜいのイメージだったでしょう。
瀬田に武田の
旗を!
「京に旗を立てよ」と遺言した信玄。
信玄の晩年の、西上作戦では「なにを、どこまで具体的目標としていたか」も諸説あります。
信玄としては、付近で跳梁跋扈している「信長の盟友」家康を倒すことが第一だったでしょう。
そして、
できれば、
足利将軍の力になり・・・
ワシが信長の
代わりになってやる!
信玄は、このような気持ちを持っていたでしょう。
美濃の名前の由来:美しき野原の国
のちに、日本の中央のほとんどを領有し、日本の有する石高の1/3程度を持つに至った信長。
農業から商業・貿易へ大きく世界が進化するなか、
余は、商業と流通を
押さえるのだ!
1582年当時は、日本の持つ商業価値の70%ほどは、信長が握っていたでしょう。
この意味において、本能寺の変当時、
我が織田家は、
交易・商業・流通でダントツトップ!
「日本国の持つ力の半分程度を握る立場」だったと言って良いでしょう。
その晩年の織田に至る過程において、美濃国の果たした役割は極めて大きいです。
現代でも山が多い岐阜県。
その名残が残っていて、美しい山々がの残っています。
岐阜県は、かつては美濃国と呼ばれていました。
現在も名残がのこっており、濃尾平野は「美濃と尾張に広がる平野」が由来です。
「美濃」の名前の由来は諸説ありますが、この光景を見ていて思い当たることがありました。
とても広大で
美しい野原が広がっている・・・
美しい野原から、
美野(みの)という国の名前になったのではないか・・・
ふと、岐阜城からの眺めを見ていて、このように思いました。
こういう学説があるのかは定かではありません。
筆者が岐阜城天守閣から、現在の岐阜県に広がる美しい山々を見た感想です。
現在は東京中心の日本。
信長の頃、あるいは江戸時代までは京・山城が「日本の中心」だったと言えます。
歴代天皇がいた京・山城は、様々な武家政権が政権を握っても、圧倒的な存在でした。
京・山城は「日本の精神的中心・重心」であり続けました。
そのため、特に戦国期までの日本は、人口が多く、生産力も高かった京・山城に近い国。
美濃は、京・山城から近江を挟んだ位置にありました。
「京・山城の隣の隣の国」だった美濃は、当時の首都圏です。
大量の米を生み出した五十万石の国
太閤検地の際、美濃は54万石の、堂々5位(陸奥を除く)となっています。
この時、五十万石を超える石高を持つ国は、わずか六カ国のみです。
商業が極めて発展していた近江に接する美濃国。
近江は「近江商人」発祥の地です。
さらに、近江同様に非常に大きな農業生産力を持っていた美濃国。
その原動力こそは、「美しき野原」であり「美野」だったのではないでしょうか。
この美しき野原から、
大量の米を算出するのだ!
「農業力が極めて高かった」国だった「美野」が広がる国。
そして、野が「農業」の字を持つ「濃」に代わり美濃になったのではないでしょうか。
経済力があれば、米などはたくさん購入することができます。
一方で、流通や周辺勢力との敵対関係により、米の入手経路・量は大きく変動したでしょう。
そのため、戦国時代において、「自国で大量の食料を算出する」ことは大事でした。
なんと言っても「大量の米を生み出す」国である美濃・尾張を握った信長。
織田家の力の原動力となった、「美野」が広がる美濃と尾張に思いを馳せました。
次回は上記リンクです。