天下を睨んだ織田信長と美濃国〜美濃の名前の由来・美しき野原の国・大量の米を生み出した五十万石の国〜|日本の旧国名

前回は「織田信長の野望と夢を育んだ美濃国と岐阜城」の話でした。

目次

天下を睨んだ織田信長と美濃国

岐阜城見上げ(新歴史紀行)

現代でも遠くから眺めることができる岐阜城。

高いところに天主閣が見えます。

信長の頃は、さぞかし壮大な感じだったでしょう。

戦国大名 織田 信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

10年近い時間をかけて、ようやく美濃・稲葉山城を手に入れた織田信長。

ここから、
天下を臨むのだ!

信長が、「いつ頃から具体的に天下を意識したか」は諸説あります。

そもそも、「天下=五畿内」だった当時。

「天下を目指す=京都周辺を抑えて、号令する」がせいぜいのイメージだったでしょう。

戦国大名 武田 晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

瀬田に武田の
旗を!

と遺言した信玄。

信玄の晩年の、西上作戦では「なにを、どこまで具体的目標としていたか」も諸説あります。

信玄としては、付近で跳梁跋扈している「信長の盟友」家康を倒すことが第一だったでしょう。

そして、

できれば、
足利将軍の力になり・・・

ワシが信長の
代わりになってやる!

くらいの気持ちがあったでしょう。

1582年の織田家勢力図(別冊歴史人 「戦国武将の全国勢力変遷地図」KKベストセラーズ)

美濃の名前の由来:美しき野原の国

岐阜城天主閣から(新歴史紀行)

のちに、日本の中央のほとんどを領有し、日本の有する石高の1/3程度を持つに至った信長。

農業から商業・貿易へ大きく世界が進化するなか、

余は、商業と流通を
押さえるのだ!

日本の持つ商業価値の70%ほどは、信長が握っていたでしょう。

この意味において、本能寺の変当時、

我が織田家は、
交易・商業・流通でダントツトップ!

「日本国の持つ力の半分程度を握る立場」だったと言って良いでしょう。

その晩年の織田に至る過程において、美濃国の果たした役割は極めて大きいです。

現代でも山が多い岐阜県。

その名残が残っていて、美しい山々がの残っています。

岐阜県は、かつては美濃国と呼ばれていました。

現在も名残がのこっており、濃尾平野は「美張に広がる平野」が由来です。

「美濃」の名前の由来は諸説ありますが、この光景を見ていて思い当たることがありました。

とても広大で
美しい野原が広がっている・・・

しい原から、
美野(みの)という国の名前になったのではないか・・・

ふと、岐阜城からの眺めを見ていて、思いました。

こういう学説があるのかは定かではありません。

僕が岐阜城天守閣から、現在の岐阜県に広がる美しい山々を見た感想です。

岐阜城天主閣から(新歴史紀行)

現在は東京中心の日本。

信長の頃、あるいは江戸時代までは京・山城が「日本の中心」だったと言えます。

京・山城中心の日本列島(新歴史紀行)

歴代天皇がいた京・山城は、様々な武家政権が政権を握っても、圧倒的な存在でした。

京・山城は「日本の精神的中心・重心」であり続けました。

そのため、特に戦国期までの日本は、人口が多く、生産力も高かった京・山城に近い国。

美濃は、京・山城から近江を挟んだ位置にありました。

「京・山城の隣の隣の国」だった美濃は、当時の首都圏です。

大量の米を生み出した五十万石の国

戦国期の国別石高(歴史群像シリーズ 1 織田信長 学研)

太閤検地の際、美濃は54万石の、堂々5位(陸奥を除く)となっています。

この時、五十万石を超える石高を持つ国は、わずか六カ国のみです。

商業が極めて発展していた近江に接する美濃国。

近江は「近江商人」発祥の地です。

さらに、近江同様に非常に大きな農業生産力を持っていた美濃国。

その原動力こそは、「しき原」であり「美野」だったのではないでしょうか。

この美しき野原から、
大量の米を算出するのだ!

「農業力が極めて高かった」国だった「美」が広がる国。

そして、が「業」の字を持つ「」に代わり美濃になったのではないでしょうか。

経済力があれば、米などはたくさん購入することができます。

一方で、流通や周辺勢力との敵対関係により、米の入手経路・量は大きく変動したでしょう。

そのため、戦国時代において、「自国で大量の食料を算出する」ことは大事でした。

なんと言っても「大量の米を生み出す」国である美濃・尾張を握った信長。

織田家の力の原動力となった、「美野」が広がる美濃と尾張に思いを馳せました。

新歴史紀行

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