前回は「織田信長の野望と夢を育んだ美濃国と岐阜城」の話でした。
天下を睨む織田信長

現代でも遠くから眺めることができる岐阜城。
高いところに天主閣が見えます。
信長の頃は、さぞかし壮大な感じだったでしょう。

10年近い時間をかけて、ようやく美濃・稲葉山城を手に入れた織田信長。

ここから、
天下を臨むのだ!
信長が、「いつ頃から具体的に天下を意識したか」は諸説あります。
そもそも、「天下=五畿内」だった当時。
「天下を目指す=京都周辺を抑えて、号令する」がせいぜいのイメージだったでしょう。





瀬田に武田の
旗を!
と遺言した信玄。
信玄の晩年の、西上作戦では「なにを、どこまで具体的目標としていたか」も諸説あります。
信玄としては、付近で跳梁跋扈している「信長の盟友」家康を倒すことが第一だったでしょう。
そして、



できれば、
足利将軍の力になり・・・



ワシが信長の
代わりになってやる!
くらいの気持ちがあったでしょう。


織田家と美濃国
のちに、日本の中央のほとんどを領有し、日本の有する石高の1/3程度を持つに至った信長。
農業から商業・貿易へ大きく世界が進化するなか、日本の持つ商業価値の70%ほどは、信長が握っていたでしょう。
この意味において、本能寺の変当時の織田家は、「日本国の持つ力の半分を握る立場」だったと言って良いでしょう。
その晩年の織田に至る過程において、美濃国の果たした役割は極めて大きいです。


現代でも山が多い岐阜県。
その名残が残っていて、美しい山々がの残っています。
岐阜県は、かつては美濃国と呼ばれていました。
現在も名残がのこっており、濃尾平野は「美濃と尾張に広がる平野」が由来です。
「美濃」の名前の由来は諸説ありますが、この光景を見ていて思い当たることがありました。
とても広大で
美しい野原が広がっている・・・
美しい野原から、
美野(みの)という国の名前になったのではないか・・・
ふと、岐阜城からの眺めを見ていて、思いました。
こういう学説があるのかは定かではありません。
僕が、岐阜城天守閣から、現在の岐阜県に広がる美しい山々を見た感想です。


現在は東京中心の日本。
信長の頃、あるいは江戸時代までは京・山城が「日本の中心」だったと言えます。


歴代天皇がいた京・山城は、様々な武家政権が政権を握っても、「日本の精神的中心・重心」であり続けました。
そのため、特に戦国期までの日本は、人口が多く、生産力も高かった京・山城に近い国。
美濃は、京・山城から近江を挟んだ位置にありました。
「京・山城の隣の隣の国」だった美濃は、当時の首都圏です。
五十万石の美濃:大量の米を生み出す国


太閤検地の際、美濃は54万石の、堂々5位(陸奥を除く)となっています。
この時、五十万石を超える石高を持つ国は、わずか六カ国のみです。
商業が極めて発展していた近江に接する美濃国。
近江は「近江商人」発祥の地です。
さらに、近江同様に非常に大きな農業生産力を持っていた美濃国。
その原動力こそは、「美しき野原」であり「美野」だったのではないでしょうか。



この美しき野原から、
大量の米を算出するのだ!
「農業力が極めて高かった」国だった「美野」が広がる国。
そして、野が「農業」の字を持つ「濃」に代わり美濃になったのではないでしょうか。
経済力があれば、米などはたくさん購入することができます。
一方で、流通や周辺勢力との敵対関係により、米の入手経路・量は大きく変動したでしょう。
そのため、戦国時代において、「自国で大量の食料を算出する」ことは大事でした。
なんと言っても「大量の米を生み出す」国である美濃・尾張を握った信長。
織田家の力の原動力となった、「美野」が広がる美濃と尾張に思いを馳せました。