美濃と近江の境界にある関ヶ原古戦場〜竹中重門陣跡への地元の思い・電車では難渋する古戦場訪問・「地域の中心地」が多い有名城郭〜|「天下分け目」の関ヶ原1

前回は「奇跡だった長宗我部元親の四国制覇〜「長宗我部の合体」と「毛利の合体」の類似点と相違点・「海に守られた国」土佐〜」の話でした。

目次

電車では難渋する古戦場訪問:「地域の中心地」が多い有名城郭

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関ヶ原(新歴史紀行)

15年ほど前ですが、出張の際に関ヶ原の古戦場に向かいました。

戦国から幕末維新にかけての様々な歴史的場所を訪問してきましたが、ロケーションは大事です。

高知城や松本城のように、メインの駅から近いと非常にアクセスが良いです。

松本城に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

伊予(愛媛)の龍馬脱藩行の伝説のルートを一部回りましたが、この時は自動車が必須でした。

龍馬脱藩ルートに関する話を、上記リンクでご紹介しています。

有名な城は、「かつての地域の中心地」にあったことが多く、「現在の地域の中心地」です。

その一方で、龍馬脱藩行や古戦場は、「地域の中心地ではない」場所が多いです。

そのため、日本全国にある古戦場を訪問する際には、自動車が必須となります。

関ヶ原を訪問した際は、名古屋に所用があり、電車で向かいました。

上の写真の通り、1時間に2本しかない電車のため、行動に大きな制約を受けました。

事前に様々な情報を調べて向かいましたが、岐阜駅から関ヶ原駅に向かう電車の本数は途端に減ります。

地方では、ローカル線の本数が1時間に1、2本程度であることが多く、難渋したのが懐かしいです。

美濃と近江の境界にある関ヶ原古戦場:竹中重門陣跡への地元の思い

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関ヶ原古戦場(新歴史紀行)

さらに、筆者が関ヶ原古戦場を訪問した日は、天候が良くなく、途中から猛烈な雨が降りました。

そのため、傘を差すものの、大いに濡れながら周囲を回った記憶があります。

とにかく、関ヶ原駅から出てすぐのところに、様々な「陣跡」の方向が示される標識があります。

上の標識では、陣跡として、徳川家康最後の陣・本多忠勝の陣・黒田長政の陣・竹中重門の陣があります。

家康、忠勝、長政は分かりますが、竹中重門が挙げられていることは意外でした。

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羽柴家家臣 竹中重治・半兵衛(図説・戦国武将118 学研)

竹中半兵衛の名で知られ、「天才軍師」と表現されることが多い竹中重治の実子である重門。

竹中重治に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

異常なほど評価が高く、高名な竹中重治の後継者にしては、非常に地味な存在だった重門。

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羽柴家家臣 黒田孝高・官兵衛・如水(図説・戦国武将118 学研)

竹中半兵衛・重治は、黒田官兵衛・孝高と並んで、「二兵衛」と呼ばれる天才軍師組とされます。

黒田孝高に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

歴史や実績が把握しやすい黒田孝高に対して、謎が多い竹中重治。

その最大の理由は、竹中重治が若くして亡くなったのに対し、黒田孝高が長生きしたことでした。

さらに、黒田家は筑前52万石という大藩となり、江戸時代を乗り切ったために、多数の資料があります。

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羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
羽柴秀吉

この秀吉は、
立身出世の半兵衛には大いに助けられた!

羽柴秀吉

私が、信長様が美濃を制して、
天下に覇を唱えた頃から・・・

羽柴秀吉

私が中国攻めに至るまで、
ずっと半兵衛は補佐してくれた・・・

羽柴秀吉

しかし、半兵衛は、
三木城攻めの途中に陣没してしまった・・・

秀吉の攻城戦のハイライトとも言える三木城攻め。

三木城を下した後、秀吉は高松城を攻めている最中に「本能寺」となりました。

竹中重治

私の生命は、
私が最も分かっております・・・

竹中重治

最後は
陣中にいさせてください・・・

半兵衛は、三木城攻めの布陣に「己の生命の全て」をかけて、陣中で没しました。

享年36と言われ、当時においても極めて若い死でした。

羽柴秀吉

半兵衛・・・

そして、ちょうど半兵衛が亡くなる頃に、羽柴家の中でのし上がってきたのが黒田孝高でした。

名前生年
羽柴秀吉1537
竹中重治(半兵衛)1544
黒田孝高(官兵衛)1546
秀吉と官兵衛・半兵衛

竹中半兵衛の2歳年下であり、「弟分」であった黒田孝高・官兵衛。

さらに、官兵衛は半兵衛に「無限大の恩義」がありました。

黒田孝高

私が荒木村重に
幽閉されてしまい・・・

黒田孝高

「寝返った」と誤解した
信長様は、我が長男抹殺を秀吉様に命じた・・・

ここまでは「戦国の習い」であり、仕方のないことでした。

ここで、若き天才軍師であった竹中半兵衛は、

竹中重治

私が黒田殿の
長子をお預かりしましょう・・・

竹中重治

万一、信長様に判明した際は
この重治が全ての責任を・・・

羽柴秀吉

半兵衛・・・
すまぬ・・・

こうして、「泥をかぶる」状況で、官兵衛の長男・黒田長政の生命を助けた半兵衛。

そして、秀吉に「危険視」されるほど、知略と軍略で秀吉に貢献した黒田孝高・官兵衛。

半兵衛の判断によって、黒田孝高・官兵衛は、安定した精神で仕えることが出来ました。

そして、「竹中重治・半兵衛の功績」だけでも、秀吉はもっと後継者・竹中重門を優遇すべきでした。

少なくとも、竹中家には10万石は与えるべきであった秀吉でしたが、

羽柴秀吉

竹中重門は
今ひとつパッとしない・・・

羽柴秀吉

まあ、5,000石
くらいか・・・

美濃において、竹中家旧領付近に「たった5,000石」で竹中家に報いた秀吉。

そして、その竹中領のすぐ近くの関ヶ原で天下分け目の戦いが勃発しました。

小身であり、軍勢規模も小さかった「地元の竹中」に対して、地元と人たちは、

関ヶ原市

竹中重門の
名前をぜひ知って欲しい!

このような地元の「竹中重門への思い」があるのでしょう。

関ヶ原市

竹中重門の陣跡を
ぜひ訪問して欲しい!

このような地元の「竹中重門陣跡への思い」が感じられる「関ヶ原」の標識でした。

次回は上記リンクです。

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