前回は「立花道雪 3〜武雷神の奮闘 3〜」の話でした。

今回は竹中重治(半兵衛)の登場です。
「和製孔明」のようなイメージのあり、非常に人気が高い竹中半兵衛重治。
「信長の野望」等のゲームにおいても、采配能力や智力が非常に高い評価を受けています。
軍略家としても優れていたと思われますが、多くは後世の創作によるところが多い。
少し誇張されているのが実態です。
また、36歳で亡くなってしまったこともあり、その能力は未知数とも言えるでしょう。
元々は、美濃の不破郡周辺を領する竹中家に生まれ、近江にも隣接する豊かなエリアで育ちました。

重治が登場するのは、有名な稲葉山城乗っ取りでしょう。
斎藤道三を討った斎藤義龍の元、精強な美濃勢を束ねていた斎藤家。

意外にも斎藤義龍が早く病死します。
次いだ龍興が若く、あまり有能でなかったため、にわかに陰りが見えてきます。

斎藤龍興は、
主君としてはダメだ。
重治は1564年に、わずか17名で稲葉山城に乗り込んで奪取しました。
孫氏の兵法を熟知していた重治の戦略は、「兵は詭道なり」を地でゆくような戦略でした。
何事もないかのごとく普通に登城し、宿直を襲って内部から撹乱して乗っ取りました。
流石に、稲葉山城ほどの大きな城を、こんなにあっさり奪取するのは少し眉唾です。
有力武将であり、舅でもあった安藤守就が2000人ほどの手勢を率いて、稲葉山城を囲んでいたのが大きい要素だったでしょう。



わずかな手勢で、
稲葉山城を乗っ取ったぞ!
城内には龍興ら少人数しかおらず、重治たちを追い払うことはできたでしょう。
しかし、城下に大勢の安藤軍がいたので、慌てて逃げ出したのでしょう。
安藤のバックがあってこそと言えど、成し遂げた重治の知略と実行力は相当なものです。


この事件は、他の家臣にバカにされた重治の意趣返しや、龍興を諫めるための「義挙」とされています。
義挙に関しては後世の創作で、実際は、本気で乗っ取ろうとしたようです。
半年も乗っ取り続け、高札を掲げて領主が変わったことを知らしめていることからわかります。
裏で糸を引いていたのは、野心家で西美濃の実力者であった安藤守就。
実は、安藤・竹中コンビは本気でした。
そして、稲葉山城及びその周辺の領土を、本気で「国盗り」するつもりでありました。



義理の父の安藤守就の
評判が悪すぎる・・・



美濃の国衆が、安藤を警戒して、
従ってくれない。
しかし、周辺の武将たちが従わず、やむなく斎藤家に返したのが実情でした。


喉から手が出るほど、美濃が欲しかった織田信長。



稲葉山城を織田家に寄越せ!
全当主の斎藤道三殿からの
譲り状もあるのだ!



稲葉山城を寄越したら、
美濃半国をつかわそう。



信長は信用できない。
実の弟も謀殺した人間だ。
信長から稲葉山城の譲渡を要望された重治は、警戒して拒絶しています。
そして、支配を諦めた重治は、稲葉山城を斎藤龍興に返します。
いくら野心家の安藤が関係しているとは言え、「国盗り」を実施した竹中重治。
いわゆる義将のイメージからは外れるでしょう。
しかし、乱世の当時はこうした「国盗り」をするのは、むしろ自然でした。
そして、それだけの能力を備えていた武将であると考えます。
「国盗り」をしても一種の清々しさを感じさせる竹中重治。
重治は「智清将」と呼ぶにふさわしい武将でしょう。