智清将・竹中半兵衛の義挙の真相〜「和製孔明」の卓抜たる軍略・稲葉山城乗っ取り・たった17名で城攻め〜|竹中重治1・人物像・性格

前回は「立花道雪 3〜武雷神の奮闘 3〜」の話でした。

戦国武将 竹中重治(図説・戦国武将118 学研)
目次

「和製孔明」の卓抜たる軍略

諸葛亮孔明(Wikipedia)

今回は竹中重治(半兵衛)の登場です。

「和製孔明」のようなイメージがあり、非常に人気が高い竹中半兵衛重治。

「信長の野望」等のゲームにおいても、采配能力や智力が非常に高い評価を受けています。

軍略家として、非常に優れていたと思われます。

一方で、多くは後世の創作によるところが多いです。

「実像よりも、かなり誇張されている」のが実態でしょう。

また、36歳で亡くなってしまったこともあり、「その能力は未知数」とも言える半兵衛重治。

元々は、美濃の不破郡周辺を領する竹中家に生まれた半兵衛重治。

美濃有力武将(国人)配置図(戦国合戦大全 歴史群像シリーズ50 学研)

「西美濃三人衆」稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就と接する「不破郡」を領していた竹中家。

山が多い地域で、近江にも隣接する、比較的豊かなエリアで育ちました。

美濃の山奥で
育ったが・・・

商業・工業盛んな近江に隣接し、
その雰囲気も感じながら成長した・・・

稲葉山城乗っ取り:たった17名で城攻め

戦国大名 斎藤道三(Wikipedia)

1544年、不破郡に誕生した竹中重治。

当時は、斎藤道三が美濃の国主でした。

重治がスクスク成長する中、斎藤道三と嫡男の義龍の中が急速に険悪になります。

そして、ついに1556年、長良川で道三軍と義龍軍の合戦が始まりました。

我が竹中家は、
道三様につく!

義龍殿が、
間違っている!

父・竹中重元が不在のため、若干12歳の重治が指揮を執り、義龍軍を撃退しました。

我が
軍略の勝利だ!

流石に、小学生6年〜中学1年生程度で「指揮を執る」はないでしょう。

周囲が支えた結果、竹中軍が「局地的に義龍軍に勝利した」のが実情でしょう。

いずれにしても、精強な義龍軍を「押し返した」竹中重治・竹中軍は強力でした。

軍名上がるも、道三軍が敗退し、一時は不破郡に閉じこもります。

・・・・・

そして、やむなく斎藤義龍に従いました。

それは、美濃の地侍・国衆の一人としては、

やむを
得ない・・・

選択だったでしょう。

そして、次に重治が勇名を馳せるのが、有名な「稲葉山城乗っ取り」です。

斎藤道三を討った斎藤義龍の元、精強な美濃勢を束ねていた斎藤家。

戦国大名 斎藤義龍(Wikipedia)

私が美濃を
治め、新たな時代を作るのだ!

ところが、意外にも斎藤義龍が早く病死します。

次いだ龍興が若く、あまり有能でなかったため、にわかに陰りが見えてきます。

斎藤龍興様は、
主君としてはダメだ・・・

というより、はっきり言えば、
道三様、義龍様と比較すると、バカだ・・・

重治は1564年に、わずか17名で稲葉山城に乗り込んで奪取しました。

孫氏の兵法を熟知していた重治の戦略は、

孫子(孫武)(Wikipedia)

兵は
詭道なり・・・

を、地でゆくような戦略でした。

何事もないかのごとく「普通に登城」し、宿直を襲って内部から撹乱しました。

そして、「あっさり」美濃の主城・稲葉山城を乗っ取った重治。

流石に、稲葉山城ほどの大きな城を、こんなにあっさり奪取するのは少し眉唾です。

有力武将であり、舅でもあった安藤守就。

我が婿殿が、
稲葉山城を奪取することを企んでいる、と・・・

面白い・・・

そして、かなりの野心家だった安藤守就。

ワシも応援して、
安藤家を盛り上げようぞ!

おそらく、安藤が1,000人ほどの手勢を率いて、応援したのでしょう。

稲葉山城へ
向かえ!

ははっ〜!

そして、稲葉山城を囲んでいたのが大きい要素だったでしょう。

わずかな手勢で、
稲葉山城を乗っ取ったぞ!

城内には龍興ら少人数しかおらず、少人数の重治たちを追い払うことはできたでしょう。

ところが、

おい、
城下に大軍勢がいるぞ・・・

城下に大勢の安藤軍がいたので、「慌てて逃げ出した」のが実情だったのでした。

「安藤のバックがあってこそ」と言えど、成し遂げた重治の卓越した知略と実行力。

それは、相当なものでした。

智清将・竹中半兵衛の義挙の真相

岐阜城見上げ(新歴史紀行)

この事件は、他の家臣にバカにされた重治の意趣返しや、龍興を諫めるための「義挙」とされています。

義挙に関しては「後世の創作」で、実際は、本気で乗っ取ろうとしたようです。

私が稲葉山城城主として、
美濃を立て直して見せる!

半年も乗っ取り続け、高札を掲げて領主が変わったことを知らしめていることからわかります。

裏で糸を引いていたのは、野心家で西美濃の実力者であった安藤守就。

実は、安藤・竹中コンビは本気でした。

そして、稲葉山城及びその周辺の領土を、本気で「国盗り」するつもりでありました。

義理の父の安藤守就の
評判が悪すぎる・・・

美濃の国衆が、安藤を警戒して、
従ってくれない。

ところが、周辺の武将たちが従わず、やむなく斎藤家に返したのが実情でした。

それは、当然のことだったでしょう。

織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

喉から手が出るほど、美濃が欲しかった織田信長。

稲葉山城を
織田家に寄越せ!

元国主の斎藤道三殿からの
譲り状もあるのだ!

稲葉山城を寄越したら、
美濃半国をつかわそう・・・

信長は信用できぬ!
実の弟も謀殺した人間だ。

信長から稲葉山城の譲渡を要望された重治は、警戒して拒絶しています。

そして、支配を諦めた重治は、稲葉山城を斎藤龍興に返します。

いくら野心家の安藤が関係しているとは言え、「国盗り」を実施した竹中重治。

いわゆる「義将」のイメージからは外れるでしょう。

実は、乱世の当時はこうした「国盗り」をするのは、むしろ自然でした。

そして、「国盗り」あるいは、「一国を切り取る」だけの能力を備えていた武将だった重治。

「国盗り」をしても一種の清々しさを感じさせる竹中重治。

重治は、「智清将」と呼ぶにふさわしい武将でしょう。

新歴史紀行

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