前回は「智清将・竹中半兵衛の真髄〜半兵衛のその後の歴史への強い影響・冴える軍略と采配・秀吉の中国攻め・半兵衛の総決算・三木城の采配・最後は陣中で〜」の話でした。

「福岡」の名付け親である黒田孝高:姫路城を拠点としていた黒田家

1546年に播磨の小寺氏の重臣・黒田職隆の長男に生まれた黒田孝高・官兵衛。
一般的には、黒田「官兵衛」の名称で呼ばれることが多いです。

この黒田孝高は、
小寺家の重臣の家柄なのだ!
孝高が生まれた頃の黒田家は、小寺家の姫路城を「城」として預かる立場でした。
黒田孝高が若かりし頃の姫路城は、現代の壮麗な城と異なり、砦に近い規模でした。
・姫路城(兵庫県姫路市)
・彦根城(滋賀県彦根市)
・犬山城(愛知県犬山市)
・松江城(島根県松江市)
・松本城(長野県松本市)
・丸亀城(香川県丸亀市)
・丸岡城(福井県坂井市)
・宇和島城(愛媛県宇和島市)
・備中松山城(岡山県高梁市)
・高知城(高知県高知市)
・弘前城(青森県弘前市)
・松山城(愛媛県松山市)
現代「現存十二天守」として名高い十二の城の中でも、筆頭に上がるのが姫路城です。
戦国史に詳しくない方でも、姫路城を知っている日本人は多数います。



城と言えば、
姫路城ね!
かつては、姫路城で事実上の城主であった黒田孝高も、



我らが拠点だった
姫路城がのう・・・
「未来の姫路城」がここまでなるとは思わなかったでしょう。



我が黒田家は
元は備前にいたのだが・・・



祖父の重隆の代に、
播磨にやってきたのだ・・・
備前福岡村出身の黒田家が、どうやって隣国・播磨で勢力を伸ばしたか、は諸説あります。
「黒田家秘伝の目薬」によって経済力をつけた、説もあります。
いずれにしても、孝高の祖父・重隆は一方の英雄であり、人をまとめる長者の風があったのでしょう。
そして、当時の名門赤松家の重臣であった小寺家で重きを置かれる立場となった黒田。
後に、黒田家は孝高の息子・長政の代に52万石という巨大な領土を得て、筑前に入りました。
現在の福岡県である筑前で、当時も元当主として強い力を持っていた孝高は、



筑前の中心地の名称を、
改めよう・・・



我が出身地の福岡村に
ちなんで、福岡とする!
筑前の中心都市の名称を「福岡」と名付け、現代に至ります。
「二兵衛」の官兵衛と半兵衛の類似性:侵攻先の一角と知恵者


この「福岡の名付け親」である側面を持つ黒田孝高。



我が黒田は
「福岡」村出身だからのう・・・
「自らの出身地だから」という理由で、福岡と名付けた福岡県福岡市は、現在、九州最大の都市です。
戦国後期の九州では、名門島津家・大友家に加え龍造寺が覇を競っていた時代があります。
各大名共に、貿易に強い関心を持っていた時代で、九州では有力な港が多数ありました。
現代の福岡県周辺においては、港もあった博多が有力な港湾都市でしたが、福岡が上回りました。
黒田家の中心都市として栄え続けて、現代に至る福岡市。



我が黒田の出身地
というだけではなく・・・



「福岡」という街の
名前がフィットすると思ったのだ!
このネーミングセンスは、とても良く、政治力にも長けていた孝高の側面を感じさせます。
そして、黒田孝高といえば、なんと言っても卓越した知謀と采配能力です。
名前 | 生年 |
羽柴秀吉 | 1537 |
竹中重治(半兵衛) | 1544 |
黒田孝高(官兵衛) | 1546 |
竹中重治(半兵衛)と共に、羽柴軍の軍師役として秀吉を補佐した黒田孝高(官兵衛)。
二人とも「〜兵衛」が共通しているので、「秀吉軍師の二兵衛」と呼ばれています。



美濃を
奪取するのだ!



猿よ!
墨俣に城を築け!



ははっ!
お任せを!
秀吉の「墨俣城築城」に関しては、諸説あり、確たることは不明です。


稲葉山城と大垣城の間に位置する墨俣は、まさに「斎藤家の喉元」でした。
墨俣城築城に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
織田家が美濃奪取した1568年頃に、秀吉の配下となった竹中重治。
秀吉が31歳、竹中重治が24歳の頃でした。
そして、将軍家を形式的に擁立した織田家は、ガンガン増強して領土を広げました。
中国地方に織田家が勢力を伸ばし、中小勢力は「織田か毛利か」を選ぶ必要がありました。



小寺様・・・
我が家や毛利ではなく、織田につくべきです・・・



私が、信長に
拝謁して、挨拶してきます・・・
1575年、武田軍を長篠の戦いで大いに破った織田信長は、旭日の勢いでした。
同年に、かねてから中国担当になりつつあった秀吉と連絡をとっていた孝高・官兵衛。



羽柴殿・・・
信長様に拝謁したいのですが・・・



おうっ!
孝高殿、承知した!



段取るので、
岐阜にお越しなされよ!
そして、孝高は羽柴秀吉と一気に近づき、信長に拝謁しました。
美濃奪取の7年後のことで、秀吉38歳、孝高29歳のことでした。
そして、この頃から、「織田の未来」を明確に感じていた孝高は、



これは、織田が
我が国を制圧する・・・



そして、我らが播磨周辺は
羽柴殿が押さえる・・・



そして、九州の方へ
織田は影響力を伸ばすだろう・・・



そして、九州の方へ
織田は影響力を伸ばすだろう・・・



ここは、織田というよりも
羽柴殿に近づいておくのが、最善だ・・・
そして、「小寺家の重臣」という立場ながら、「織田・羽柴にも属する」立場となっていった孝高。



この黒田という
男は、若いながら鋭いな・・・



半兵衛と共に
私を支えてもらおう・・・
竹中重治同様に、「攻め込む先に一定の領土・影響力を有した」黒田孝高。
そして、両者とも「知恵が回る」点で強い類似性を持っていました。
「秀吉の軍師役」の話は、少し脚色の要素がありますが、秀吉より9歳年下の若き孝高。



我が小寺も黒田も
秀吉殿のもとで栄えよう!
「織田と羽柴の未来」に、己の運命をかけることにしました。