前回は「織田信長 3〜中世を抹殺した男〜」の話でした。

尾張に続き、美濃を制圧し「天下布武」を唱えた信長。
当時の「天下」は「日本全国」という意味ではなく、「山城周辺の畿内」を指すという説もあります。
「岐山」から「岐阜」と命名した頃、具体的に「世を一新してやる!」と考えていたでしょう。

私が世を変えるのだ!
信長は「中世を抹殺した男」と表現できるでしょう。
足利幕府と世の中の状況が軋み、崩れかけているのは信長以外の多くの大名が「実感していた」のです。
そして、元守護であった大名や、成り上がりの大名たちが戦国大名となり、
「自分の夢を賭けて自分の国づくりを進めていった」のでしょう。


叡山焼き討ちに関しては、司馬遼太郎の「国盗り物語」などで、「良識派」の明智光秀が「頑強に反対」したことになっています。
実態は明智光秀は「率先して」焼き討ちをしたようです。


当時、信長は西に浅井・朝倉、本願寺・三好・六角の残党、東に武田信玄との緊張が始まり、東西から挟み撃ちの状況でした。


浅井・朝倉の軍隊を駐屯させて圧力をかけ続ける延暦寺を信長が絶対に許せなかったのは、戦国の世であれば当然であったでしょう。
「絶対に許せん!」と息巻くことは、大名ならば誰しも考えることです。
実際に鉄槌を下すことを「考える」まではいっても、現実には難しい。
実際に「宗教の総本山に攻め込む」という行動に起こすことは、誰しも「現実として不可能」と考えていたのです。
武田信玄のような旧守護家出身の保守派からすると「信じられない暴挙」であったのです。


平家物語において、白河法皇が「鴨川の水、双六の賽、山法師。これぞ我が心に叶わぬもの」と嘆いた仏教勢力。
延暦寺などの仏教勢力に対抗したいものの、法皇の力を持ってしても抵抗不可能な存在でした。
そして、この「無茶」とも言える「暴挙」に踏み切るところが、信長が放った強烈な光でした。



仏教勢力は、やりたい放題ではないか!



私は絶対に、仏教勢力とは妥協しない!
織田家の諸将からみると「新しい時代を切り開く」新鮮味がありました。



延暦寺が私にしたがぬならば、叩き潰すまで!
そして、これこそが、信長についてゆきたくなる大いなる魅力だったのでしょう。





信長様こそが、新たな世を切り拓くお方!



我らも信長様に続いて、天下を織田家のものに!



そして、この秀吉も出世するのだ!
相手が我が国の歴史深い超有名な宗教組織であっても「容赦しない」強烈な姿勢を明確に打ち出した織田信長。
そして、信長に従う織田家の諸将。
「中世の世」に激震を走らせ、中世にピリオドを打つ序章となりました。