中世にピリオドを打った男・織田信長〜京を目指す心意気・本拠地移転・清洲から小牧山へ・天下布武の意味・叡山焼き討ち・旧勢力との死闘・中世の世に激震を走らせた信長と織田家臣団〜|織田信長4・人物像・政治能力

前回は「中世を抹殺した男・織田信長〜武田討滅戦・信長が考えた「新たな世」と「日本という国家の姿」・天皇と信長・中世の権威・朝敵〜」の話でした。

織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

中世にピリオドを打った男:京を目指す心意気

信長の本拠地移転(新歴史紀行)

尾張下四群の守護代・織田家の三人の家老の一人であった織田信長の父・信秀。

信秀の才覚で、信長が生まれた頃は、織田信長の織田家は尾張の南半分程度を領する存在でした。

戦国期の国別石高(歴史群像シリーズ 1 織田信長 学研)

太閤検地の際、57万石という全国3位の石高を誇った尾張。

戦国時代とはいえ、のちに織田家勃興期には比較的平穏だった尾張は、石高が伸びたと考えます。

そこで、1555年ごろは、「50万石ほどだった」と考えられる尾張。

その約半分である25万石ほどを領し、津島湊など押さえ、強大な経済力を持った織田家。

桶狭間の戦い(Wikipedia 歌川豊宣画)

信秀死後に、桶狭間の戦いで当時全国有数の強敵・今川義元を葬って、デビューした信長。

この1560年ごろから、信長は明確に

京を
目指してやる!

と考え始めたのでしょう。

今川義元を倒すまでは、「一地方勢力に過ぎなかった」存在の織田家。

まずは、舅・斎藤道三の
美濃を奪取する!

信長の本拠地移転(新歴史紀行)
信長の本拠地移転(新歴史紀行)

美濃を攻撃し、がむしゃらに稲葉山城を目指しますが、斎藤家は今川家とは全然違いました。

やはり、
斎藤家は違う・・・

若くして病死してしまった斎藤義龍。

戦国大名 斎藤義龍(Wikipedia)

斎藤義龍の能力もまた、非凡なものであり、当時一流の武将でした。

本拠地移転:清洲から小牧山へ

信長の本拠地移転(新歴史紀行)
信長の本拠地移転(新歴史紀行)

本拠地を稲葉山城に
近い小牧山へ移すぞ!

えっ?
それはちょっと・・・

いいから、早くしろ!
俺について来い!

清洲から北の、稲葉山城により近い小牧山状に本拠地を移転した信長。

当時、「本拠地を移転する」という発想を持った戦国大名は、ほとんどいませんでした。

戦国大名 武田 晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

本拠地を
移転、だと・・・

なにを馬鹿な・・・
我が武田の本拠地は、未来永劫、甲斐なのだ!

甲斐守護に生まれた武田信玄、「本拠地移転」など考えもしなかったでしょう。

それは、越後守護代から関東管領になった長尾景虎も、同じでした。

この本拠地移転こそは、信長の「信長たる最たる要素」の一つですが、

俺の家は、そもそも守護でも
守護代でもない・・・

たまたま、尾張を
発祥の地とするだけだ・・・

武田家・長尾家と比較して、「家柄が低かった」織田家。

「家柄が低かった」が故に、「自由な発想ができた」とも言えるでしょう。

信長の本拠地移転(新歴史紀行)
信長の本拠地移転(新歴史紀行)

やっと稲葉山城を
落とした・・・

念願の稲葉山城奪取に成功し、美濃を支配下に置いた信長。

岐阜城と
改名する!

俺が新たな世界を
作り出すのだ!

天下布武の意味

尾張に続き、美濃を制圧し「天下布武」を唱えた信長。

この頃、濃尾で100万石を超える大大名となります。

石高が高いだけではなく、経済力も高く、流通も盛んな尾張・美濃。

織田家は、美濃を支配下に置いた時点で、「一つ頭が抜けた存在」となりました。

そして、

「天下布武」だ!

「天下布武」という分かりやすい標語を掲げた信長。

「分かりやすい」ことは、非常に大事なことです。

この意味では、ビジネスセンスも際立っていた信長。

当時の「天下」は「日本全国」という意味ではなく、「山城周辺の畿内」を指すという説もあります。

「岐山」から「岐阜」と命名した頃、具体的に

世を
一新してやる!

と考えていたでしょう。

私が世を
変えるのだ!

叡山焼き討ち:旧勢力との死闘

叡山焼き討ち (絵本太閤記 歴史人2016年12月号)

「中世を抹殺した男」と表現できる信長。

足利幕府と世の中の状況が軋み、崩れかけているのは信長以外の多くの大名が「実感していた」のです。

そして、元守護であった大名や、成り上がりの大名たちは、自ら守護大名から戦国大名となり、

自分の夢を賭けて、
自分の国づくりを進めてゆく!

このような気持ちがあって、

そのためには、
武田の領土をガンガン広げるのだ!

叡山焼き討ちに関しては、司馬遼太郎の「国盗り物語」などで、特徴的な描き方がされています。

「良識派」の明智光秀が「頑強に反対」したことになっています。

これは虚像であり、実態は明智光秀は「率先して」焼き討ちをしたようです。

明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

当時、信長は西に浅井・朝倉、本願寺・三好・六角の残党、東に武田信玄との緊張ありました。

つまり、東西から挟み撃ちの状況でした。

我が織田家は、
敵に挟まれておる・・・

1572年の織田家勢力図(別冊歴史人 「戦国武将の全国勢力変遷地図」KKベストセラーズ)

浅井・朝倉の軍隊を駐屯させて圧力をかけ続ける延暦寺を信長が絶対に許せなかったこと。

それは、戦国の世であれば当然であったでしょう。

叡山は
許せん!

と息巻く信長。

ここまで、大名ならば誰しも考えることです。

叡山に
鉄槌を下すか・・・

実際に鉄槌を下すことを「考える」まではいっても、現実には難しい。

実際に「宗教の総本山に攻め込む」という「驚愕の事態」を行動に起こすこと。

これは、誰しも「現実として不可能」と考えていたのです。

武田信玄のような旧守護家出身の保守派からすると「信じられない暴挙」であったのです。

叡山を
焼き討ちだと・・・

信長め・・・
気でも狂ったのか・・・

余は
至って正気だ!

中世の世に激震を走らせた信長と織田家臣団

白河法皇(Wikipedia)

平家物語において、白河法皇が、

鴨川の水、双六の賽、
山法師・・・

これぞ
我が心に叶わぬもの・・・

と嘆いた仏教勢力。

信長の頃よりも、はるかに天皇家・朝廷の力が強大だった白河法皇の時代。

その白河法皇ですら「匙を投げた」仏教勢力。

延暦寺などの仏教勢力に対抗したいものの、法皇の力を持ってしても抵抗不可能な存在でした。

そして、この「無茶」とも言える「暴挙」に踏み切るところが、信長が放った強烈な光でした。

仏教勢力は、
やりたい放題ではないか!

私は絶対に、
仏教勢力とは妥協しない!

織田家の諸将からみると「新しい時代を切り開く」新鮮味がありました。

延暦寺が
私にしたがぬならば、叩き潰すまで!

そして、これこそが、信長についてゆきたくなる大いなる魅力だったのでしょう。

織田四天王

信長様こそが、
新たな世を切り拓くお方!

我らも信長様に続いて、
天下を織田家のものに!

そして、
この秀吉も出世するのだ!

相手が、我が国の歴史深い超有名な宗教組織であっても「容赦しない」強烈な姿勢。

この姿勢を明確に打ち出した織田信長。

そして、信長に従う織田家の諸将。

「中世の世」に激震を走らせ、中世にピリオドを打つ序章となりました。

新歴史紀行

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