前回は「織田信長が天下を見据えた岐阜城天主閣〜大国美濃の潜在力・天主閣と天守閣・大阪から大坂へ・斎藤道三の夢・織田家の美濃争奪戦と羽柴秀吉の活躍〜」の話でした。
岐阜城と美濃国:尾張制圧後の信長の目線
岐阜城を見上げてみましょう。
はるかに高いところに、天主閣が見えます。
標高329mの金華山は、それほど高い山ではないです。
このくらいの高さの山であれば、日本の様々な地域で見かける高さです。
一方で、この「山」は、濃尾平野においては、雄大な存在感があります。
現代でも感じられる、この「大いなる存在感」。
織田信長・斎藤道三の頃の、金華山・稲葉山城の威容は、相当なものだったでしょう。
そして、稲葉山城・岐阜城は信長の頃は、さぞかし壮大な感じだったでしょう。
岐阜城から、
濃尾平野を見渡す・・・
そして、
天下を睥睨するのだ!
そもそも、「なぜ、信長が尾張統一から美濃へ向かったのか」という疑問。
それは、もちろん「舅であった斎藤道三との関係」が最大の理由でした。
一方で、「それが決め手の理由ではない」という気もします。
尾張統一後、信長の進路は「東の三河・北の美濃・西の伊勢」の3つの国がありました。
このうち、「東の三河」は早々に敵対していた松平元康(徳川家康)と同盟を結んだ信長。
家康よ!
三河から東は任せたぞ!
三河・遠江は
お任せを!
後の世になると、「信長の当然の進路である美濃」ですが、まずは「東の進路」をなくした信長。
つまり、当時、織田信長にとっては東以外の「北・西への進出・侵攻」が選択肢となりました。
それは、
わが織田が
目指すは京!
当時の信長は「最初から京を目指していた」ように思ってしまいますが、それは後世の見方でしょう。
桶狭間の戦いにおける「今川義元の真の狙い」
桶狭間の合戦直後の、若い信長が「天下への野望」をどの程度持っていたかは不透明な点があります。
現実的には、
尾張をようやく
統一したところで・・・
今川義元が
大挙して攻めてきた・・・
そもそも、「桶狭間の合戦」が勃発した今川義元の「西上作戦」の本当の目的。
かつては、
名家である、我が今川家が、
足利将軍を補佐するために京へ!
今川義元率いる25,000ほどの今川軍が「京目指して侵攻」した認識が一般的でした。
そして「京目指して侵攻する途中」の尾張にいた信長は、「今川の通過点」という認識でした。
最近は、「今川家による尾張・三河国境の織田勢力の駆逐」が最優先だったという説もあります。
急成長著しい織田信長の織田家。
織田信長の父・信秀の時に急成長しました。
そもそも、守護でも守護代でもない信長の織田家。
実は、尾張下四郡を領する守護代の織田大和守家(清洲織田家)の「三家老の一人」に過ぎなかった信秀。
織田大和守家(清洲織田家)は、尾張上四郡を領する織田伊勢守家と対立していました。
つまり、「尾張一国を領する」どころか、「尾張半分の守護代の三人の家老」の一人だった信秀。
感覚的には、「尾張の半分の1/3のさらに半分=尾張の1/12」程度の影響力だったと考えて良いでしょう。
この意味では、織田信秀の時代の織田家は、「まだ戦国大名化する途中の小大名」だったでしょう。
対して、駿河・遠江・三河に影響力を有し、「足利家一門」の戦国大名だった今川義元。
尾張の小大名だった織田信秀の嫡男
織田信長がうるさい・・・
そもそも、信長の織田家は、
尾張の一部を領していた小大名・・・
我が今川家とは、
「格が違う」・・・
「格が違う」以前に、
我が今川とは「比較にならない」存在なのだ!
「織田など敵ではない」が本音だった今川義元。
そして、信長が、三河への影響力を強めたのに危機感を持った義元。
そろそろ、
織田信長を駆逐せねば・・・
「尾張を攻める」にしては「異常な大軍勢」を率いた義元でしたが、それは
一気に織田家を
三河周辺から駆逐し・・・
あわよくば、
尾張を我が今川家に!
「尾張併呑」が義元の狙いであり、京への進軍は考えていなかったのが実情でしょう。
「そのための動員」と考えると、あの2万を超える動員数も頷けます。
織田信長の野望と夢
この圧倒的大軍勢の今川軍に対して、信長は、
今川義元を
倒すのは、奇襲しかない!
な、なに!?
ば、馬鹿な・・・
今川義元を
討ち取ったぞ!
桶狭間の戦いで奇襲攻撃で一気に義元の首を取り、今川家は瓦解しました。
そして、今川家の脅威を振り払った信長。
「独立心旺盛だった」松平元康を焚き付けて、独立させて同盟を結んだのでした。
次に信長は、
次は、北の美濃か
西の伊勢か・・・
考えに考えた挙句、
次は、
美濃だ!
美濃攻略を優先した信長。
7年かかったが、
やっと美濃を制圧した!
そして、7年もの長き時間をかけて、美濃を制圧、稲葉山城から岐阜城へ改名したのでした。
民衆や国衆からすると、
あの城が、
我々の領主の城だ!
「あそこに我らが領主がいる」と感じられます。
「合戦の拠点としての城」という役割よりも「象徴としての城」だった岐阜城。
信長の発想が、非常に色濃く現れています。
後に建築する安土城もまた、岐阜城(稲葉山城)の影響があるのでしょう。
岐阜城を築くには、大変なコストと労力がかかったでしょう。
木材は金華山(稲葉山)から切り出すとしても、石などの建設資材はどうやって運んだのか。
安土城同様に岡部又右衛門が棟梁となって築いた城ですが、壮大なロマンを感じます。
岐阜駅前の広場には、織田信長公の金色の像があります。
とても目立ちますので、岐阜へ行った際にはご覧ください。
「豪華な信長らしさ」で、この金ピカになったのでしょうが、
ちょっと
ピカピカしすぎかな・・・
「ちょっと違うかな」とも思います。
銅像としては、これほど高い位置にあるのは珍しいです。
岐阜城天主閣のごとく、信長があたりを睥睨する感じです。
それもまた、
尾張から美濃へ!
そして天下へ!
という「壮大すぎるロマン」を、築き上げた信長のイメージでもあります。
次回は上記リンクです。