前回は「織田信長 4〜中世をピリオドを打った男 〜」信長の話でした。

「中世を抹殺した帝王」はどのような立場で、その仕事を仕上げて海外に雄飛してゆくのか。
そこで「三職推任」問題となります。
当時「正親町天皇に退位を迫っていた」とか「圧力をかけていた」という説もあります。

日本の帝王は私なのだ。
朝廷は、日本国内に対してのみ、官位授与等の権限を持つ。



しかし、対外国に対しては、朝廷も天皇も関係ない!
私が、この国の主なのだ!
信長としては、こう考えていたでしょう。
征夷大将軍にしても関白にしても、「朝廷から任命される」のは「朝廷より下と海外に誤解されるのでは」と懸念していたのでないでしょうか。
信長が「朝廷をなくす」「天皇制を廃止する」ことを考えていたという説もあります。



今後、対外国との関係が活発になると、
天皇も朝廷も邪魔だ。



今の私には、天皇・朝廷を消す武力はある。



しかし、それを実行したら、
家臣団どもも同様し、民衆も統治できまい。
そういう荒っぽいことをすると、国内の収まりがつきにくくなるので、信長は「現実的ではない」と考えていたと思います。
信長は非常に合理的なリアリストですから、無駄なことは避けるはずです。
むしろ、既存の朝廷任命の職には興味がなく、自分で「覇王」なり「帝王」を想起させる「新たに創り出した地位」を名乗るつもりだったのではないでしょう。



まずは、征夷大将軍か関白に
なってやってもよい。
その過程で、一時的に征夷大将軍等の地位に「なっても良い」くらいに思っていたように思います。
信長が平氏を名乗っていたので、「源氏の征夷大将軍にはなれない」という説もあります。



「源氏か平氏か」など、もはやどうでも良いわ!


対外関係を念頭に、朝廷との関係などに思考を集中していて、軍事面は「家臣に任せていた」のでしょう。
光秀や柴田勝家、滝川一益は信長よりも年上であり、信長は一定の配慮をしていました。


歴代からの家臣の勝家も一度は信長に反旗を翻したものの、許した経緯があります。
彼らを家臣として取り立て、自ら先頭にたち戦略と戦術を教え込んで「育て上げた」気持ちだった信長。
光秀の年齢は諸説ありますが、信長よりも6歳ほどは年上でした。


「生まれながらの大名」であった信長は、そういう光秀や一益の才能を愛していました。
相手が年上であっても、自ら育て上げた親のような気持ちだったのでしょう。


若い頃からずっと悩まされ続けた武田家を叩き潰した信長。



もう私が指図する
必要はないわ!
「あとは問題ない」と自分の「弟子たち」が自動的に天下を統一してくれる状況。


信長は、対外的立場の構築・中世抹殺の総仕上げに全精力を注ぎ込んでいました。
その最中の「まさか!」の本能寺の変ででした。