前回は「上杉謙信 4〜関東管領上杉政虎 2〜」の話でした。

「関東管領・上杉家」の大義名分を掲げて、関東に乱入した、長尾景虎=上杉政虎(以下、謙信)。

この時点で大きな版図を持つ大名としては、西の大友家と毛利家がいます。

瞬間的に、上杉家は大友、毛利をも上回る、圧倒的大大名となります。
「関東管領という巨大な権威」+「最大版図を持つ大きな経済力」+「大勢の屈強な家臣団」を持つ上杉家。

関東は私が治める!



北条は、滅ぼしてやる!
勢いに乗った、謙信は北条家の本拠地・小田原城を包囲します。



本拠地・小田原城まで、
攻め込まれるとは・・・
北条家は、絶体絶命のピンチを迎えます。
しかし、小田原城を包囲した謙信は、城を陥落させることは出来ませんでした。
それは、本拠地の越後春日山城から、一気にあまりに遠くまで出撃してしまったのが最大の理由です。



少し遠くまで来すぎた。
そして、退陣時間が長く、将兵共に疲労がたまってしまい、厭戦気分が高まったのでしょう。


1568年には、織田信長が美濃から一気に将軍足利義昭を封じて、京へ入ります。
この時、六角家・三好家などと戦い、足利幕府領の復活と織田家の版図拡大を含め、一気に占領域を広げました。
それと比較しても、非常に広大な領土を占領するに至った謙信。



山を次々と超えるのは、堪える・・・



関東武士たちを従えるのも、
一苦労だ。
しかし、なんと言っても越後と関東の間の山々を超えての侵攻は、大変な苦労があったに違いない。