前回は「上杉謙信 3〜関東管領上杉政虎 1〜」の話でした。

1560年に長尾から上杉となって、同年から1561年にかけて疾風のごとく猛烈な勢いで関東へ侵入した長尾景虎(謙信)。


関東管領 上杉政虎だ!
つい先頃までに、北関東まで攻め込んで、「関東の覇王」となっていた北条氏康。







長尾だと?



長尾は、
越後の守護代だろう!



お前は、
関東には関係ないだろう!
関東北部から攻め込まれて、本拠の小田原城まで攻められる状態となりました。



上杉憲政を関東から
叩き出したと思ったら・・・



「長尾が上杉になった」だと?
北条家は「滅亡寸前まで追い込まれた」と表現しても良い状況でした。



関東の国衆のほとんどが、
上杉についてしまった・・・
感覚的には「関東の半分程度は上杉謙信についた(従属した)」といっても良いでしょう。



関東は上杉のものだ!



つまり、俺のものだ!



違う!
関東は北条家のものだ!
猛烈な勢いで「上杉王国」を築いた謙信。



関東だけでも
100万石を優に超える領土だ!





政虎様に続け!
北条家の支配となりかけていた関東は、一気に上杉の色に染まります。
小田原城に逼塞するしかなかった北条氏康。
元々、長尾家とは敵対関係になかっただけに、非常に悔しいです。



こんな馬鹿な・・・



これで北条も終わりか・・・
後年、織田信長が足利義昭を担り上洛した際、一時的に近畿周辺を席巻しましたが、その状況と似ているとも言えます。



いや、とりあえず「上杉という嵐」が
過ぎ去るのを待とう。
「武力と権威を足し合わせる」と言うよりも、「近世的武力と中世的権威の掛け合わせ」とも言えるこの猛烈なパワー。
時は1561年で、織田信長が、今川義元を桶狭間(田楽狭間)に打ち取った翌年です。


ひょっとしたら、信長は景虎のこの関東遠征から、大事なことを学んでいたかも知れません。



権威をうまく活用すると、
猛烈なパワーとなる。



大義名分は大事だ!
のちに、足利義昭を推戴して京都に殴り込みをかけた、織田信長。
上杉家を継いだ景虎と「足利家を推戴しただけ」の信長は根本的な違いがあります。
その違いこそが、「信長流」であり、「織田信長ならでは」なのでしょう。