前回は「瞬間的に圧倒的大大名となった上杉家〜鎌倉公方・関東管領の統治国・大友毛利を超えた版図・深く根付いていた室町幕府の権威〜」の話でした。
越後守護代と関東管領
1560年に越後守護代の長尾から、権威が遥かに高い「関東管領・上杉」となった政虎(謙信)。
一気に守護を飛び越えて、関東管領となりました。
今までは「越後守護代」長尾だったが、
今日からは「関東管領」上杉だ!
同年から1561年にかけて、疾風のごとく猛烈な勢いで関東へ侵入しました。
一気に守護を飛び越えて、
関東管領だ!
関東10カ国を治める鎌倉公方を補佐する関東管領。
各国には守護がおり、守護が最高権力者ですが、関東管領はさらに上をいく存在と言えるでしょう。
ワシは
甲斐守護・武田晴信だ!
甲斐も、
関東管領の管轄地だ!
現代では関東地方に「含まれない」山梨県(甲斐)ですが、関東公方の支配権の関東には「含まれていた」のでした。
名前 | 生年 |
毛利元就 | 1497年 |
北条氏康 | 1515年 |
今川義元 | 1519年 |
武田信玄 | 1521年 |
長尾景虎(上杉謙信) | 1530年 |
織田信長 | 1534年 |
武田信玄よりも9歳も若い上杉政虎。
関東管領となった1560年の時点で、政虎は30歳、晴信は39歳です。
この差は結構大きく、若きスターである上杉政虎は意気揚々としていたでしょう。
越後を拠点とし続けた「関東管領」上杉政虎:繰り返す関東侵攻と謙信の越山
戦国最強の「軍神」謙信は、進歩的・革新的な大名とは言えませんでした。
将来的構想と軍略を重視していたなら、戦国の世は大分様変わりしていたでしょう。
上杉家を継ぎ、関東管領になった時点で、政虎は拠点を関東に移すことを真剣に考えるべきでした。
上杉の姓と関東管領を譲った上杉憲政。
これで長尾は越後守護代と
関東管領を兼ねるが・・・
何と言っても関東管領の方が
遥かに上だ・・・
恐らく、上杉憲政は、謙信に上野国に拠点を移すように要望したでしょう。
謙信殿・・・
関東管領に就任したのだから・・・
私の故郷・上野に拠点を
移して欲しいのだが・・・
私は、
越後守護代の家柄でして・・・
だから、あなたは「関東管領上杉家」に
なったんだから!
いえ、
その・・・
関東管領となり、
関東を治めることこそ、
私が為すべきことだ!
こう考えた政虎は、本拠地である春日山城から度々関東へ侵攻しました。
山を越えるのが
大変で・・・
繰り返す越山に政虎も家臣団も疲れ果てながら、何度も何度も往復をしました。
関東から越後に帰ると、
我が軍に帰順した連中が、また北条方へ戻る・・・
関東はしばらく、上杉と北条の「いたちごっこ」の様相となりました。
強力な武力x中世的権威xカリスマ的軍神:失われた関東制圧のチャンス
「強力な武力x中世的権威カリスマ」を兼ね備えた政虎。
そうこうして関東に繰り返し侵攻するも、武田・北条・今川の甲相駿三国同盟に阻まれます。
桶狭間の戦いで、急速に没落・凋落した今川家。
我が子・義信と「今川家に対する対応」で
意見が全く合わぬが・・・
出来れば、長男との
関係は壊したくない・・・
その後、武田信玄が駿河侵攻するまで8年かかりました。
上野国には、かつて上杉憲政に属していた屈強な長野業正(1561年死去)率いる長野家もありました。
のちに、西上野に侵攻した武田信玄を大いに悩ました長野業正。
業正が生きている限り、
上野には手を出せない・・・
長野家などを束ねれば、関東に強固な地盤を築けたはずだった上杉政虎。
越後に
一度帰ります・・・
えっ!
関東はどうするのだ?
また、
関東に来ます・・・
政虎は越後に戻り、この後度々関東へ侵攻して莫大なエネルギーと時間を費やすことになります。
千載一遇のチャンスを放って、自国へ戻ってしまった政虎。
そのうちに、
関東制圧して見せよう!
ところが、「関東制圧」のチャンスは、政虎に二度とやってこなかったのです。
上杉憲政は、
何のために長尾に上杉家を継がせ、
関東管領職を譲ったのか?
我が上杉家を
安売りしてしまったか・・・
かなり悩んだことでしょう。
ここが政虎、のちの謙信の極めて大きく、取り返しの付かない戦略的ミスとなりました。
次回は上記リンクです。