真珠湾奇襲攻撃 33〜戦艦から空母へ・日本海海戦・迎撃戦略・山本五十六・永野修身〜|太平洋戦争

前回は「真珠湾奇襲攻撃 32〜リメンバー・パール・ハーバー・演説・大統領選挙・ハル・東條英機〜」の話でした。

目次

戦艦から空母へ

真珠湾を攻撃する日本軍(歴史街道2021年12月号 PHP研究所)

後の世には「この頃(真珠湾奇襲攻撃)に、海軍が戦艦主体から空母主体へ移行した」と言われます。

一方、それは後世から見た視点であります。

当時を生きている人々からすると、そう簡単に「発想の転換」はできません。

山本五十六 連合艦隊司令長官(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社)

かつて航空本部長の立場にあって、「空母・航空機主体」を推進し続けた山本五十六司令長官。

これからは、
空母・航空隊が主軸だ!

戦艦は
不要になる・・・

早い時期から、空母・航空隊の本当の力を見出していた山本長官。

こんな逸話があります。

ある時、山本長官が戦艦を設計する技師たちが働く職場に現れると、

君たちには
悪いんだが・・・

このまま、
戦艦ばかり設計していると・・・

君たちは、
失職するぜ。

はあ・・・

これからは、
空母だ!

君たちのその優れた技術を、
ぜひ戦艦ではなく、空母に活かしてほしい!

こう設計技師たちを鼓舞した山本長官。

日本海海戦と山本長官

東郷平八郎 連合艦隊司令長官(日露戦争)(Wikipedia)

山本司令長官と言えども、海軍に入った頃は、当然ながら「戦艦主体」であったのです。

そして、日露戦争の日本海海戦において、東郷平八郎司令長官(当時)のもとで、若手の少尉として参戦しました。

まだ山本姓となる前の、実家高野姓を名乗っていた、若き山本(高野)少尉。

戦艦三笠に座乗する東郷平八郎連合艦隊司令長官(Wikipedia)

そして、山本少尉は戦場で重傷を負い、左手の指を二本失いました。

重症の理由は、「敵砲弾による被弾」と「事故」の二つの説があります。

指を
二本失ってしまったが・・・・

まだ、海軍軍人として
やって行ける!

その後、米国留学を経て、「航空機に未来を見た」山本長官の若き日々でした。

航空機に戦艦や巡洋艦を
沈没させることができるのか?

という疑念が、まだまだ多い中、山本五十六は一歩も二歩も先を見ていたのです。

日本海軍の「迎撃ポリシー」と山本五十六

及川古志郎 海軍大臣(Wikipedia)

この意味において、前例・先例ばかり気にする及川元海相は、山本五十六長官の比較の対象にすらなりません。

永野修身 軍令部総長(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社)

海軍の三顕職である海軍大臣・軍令部総長・連合艦隊司令長官を全て務めた唯一人である永野軍令部総長。

永野軍令部総長といえども「海軍の未来」を見通す力においては、山本五十六長官より「遥かに劣る」状況だったのです。

日露戦争の
時はだな・・・

とレコーダーのように、40年近く昔の戦いを語り続ける永野総長。

ま、俺は
天才だからな・・・

「自称天才」の永野総長。

確かに、日露戦争では大きな功績を上げた永野総長ですが、もはや発想は古かったのでした。

そして、日本海海戦の大勝利によって、日本海軍の大きな戦略・戦術が決定づけられました。

我が日本海軍の
勝利の秘訣は・・・

日本近海へ敵海軍を
ひきつけ、そこで迎撃して一気に雌雄を決す!

敵海軍を、
日本海軍で迎撃するのが、必勝の戦法だ!

こうして、「迎撃ポリシー」が確立した日本海軍。

そして、「航空」に海軍の未来を見て、人生を賭けてきた山本長官。

真珠湾に、「航空主体の機動部隊」で、はるばる奇襲攻撃を敢行した山本司令長官。

山本五十六 連合艦隊司令長官(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社)

自身も経験した日本海海戦以来の、日本海軍の伝統である「迎撃ポリシー」が根強かった海軍。

待っていても
仕方ない・・・

こちらから、
出かけて行って、米軍を叩く!

その海軍伝統の「迎撃ポリシー」戦略を叩き潰してまで、敢行した山本司令長官でした。

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