前回は「真珠湾奇襲攻撃 32〜リメンバー・パール・ハーバー・演説・大統領選挙・ハル・東條英機〜」の話でした。
戦艦から空母へ

後の世には「この頃(真珠湾奇襲攻撃)に、海軍が戦艦主体から空母主体へ移行した」と言われます。
一方、それは後世から見た視点であります。
当時を生きている人々からすると、そう簡単に「発想の転換」はできません。

かつて航空本部長の立場にあって、「空母・航空機主体」を推進し続けた山本五十六司令長官。

これからは、
空母・航空隊が主軸だ!



戦艦は
不要になる・・・
早い時期から、空母・航空隊の本当の力を見出していた山本長官。
こんな逸話があります。
ある時、山本長官が戦艦を設計する技師たちが働く職場に現れると、



君たちには
悪いんだが・・・



このまま、
戦艦ばかり設計していると・・・



君たちは、
失職するぜ。
はあ・・・



これからは、
空母だ!



君たちのその優れた技術を、
ぜひ戦艦ではなく、空母に活かしてほしい!
こう設計技師たちを鼓舞した山本長官。
日本海海戦と山本長官


山本司令長官と言えども、海軍に入った頃は、当然ながら「戦艦主体」であったのです。
そして、日露戦争の日本海海戦において、東郷平八郎司令長官(当時)のもとで、若手の少尉として参戦しました。
まだ山本姓となる前の、実家高野姓を名乗っていた、若き山本(高野)少尉。


そして、山本少尉は戦場で重傷を負い、左手の指を二本失いました。
重症の理由は、「敵砲弾による被弾」と「事故」の二つの説があります。



指を
二本失ってしまったが・・・・



まだ、海軍軍人として
やって行ける!
その後、米国留学を経て、「航空機に未来を見た」山本長官の若き日々でした。
航空機に戦艦や巡洋艦を
沈没させることができるのか?
という疑念が、まだまだ多い中、山本五十六は一歩も二歩も先を見ていたのです。
日本海軍の「迎撃ポリシー」と山本五十六


この意味において、前例・先例ばかり気にする及川元海相は、山本五十六長官の比較の対象にすらなりません。


海軍の三顕職である海軍大臣・軍令部総長・連合艦隊司令長官を全て務めた唯一人である永野軍令部総長。
永野軍令部総長といえども「海軍の未来」を見通す力においては、山本五十六長官より「遥かに劣る」状況だったのです。



日露戦争の
時はだな・・・
とレコーダーのように、40年近く昔の戦いを語り続ける永野総長。



ま、俺は
天才だからな・・・
「自称天才」の永野総長。
確かに、日露戦争では大きな功績を上げた永野総長ですが、もはや発想は古かったのでした。
そして、日本海海戦の大勝利によって、日本海軍の大きな戦略・戦術が決定づけられました。
我が日本海軍の
勝利の秘訣は・・・
日本近海へ敵海軍を
ひきつけ、そこで迎撃して一気に雌雄を決す!
敵海軍を、
日本海軍で迎撃するのが、必勝の戦法だ!
こうして、「迎撃ポリシー」が確立した日本海軍。
そして、「航空」に海軍の未来を見て、人生を賭けてきた山本長官。
真珠湾に、「航空主体の機動部隊」で、はるばる奇襲攻撃を敢行した山本司令長官。


自身も経験した日本海海戦以来の、日本海軍の伝統である「迎撃ポリシー」が根強かった海軍。



待っていても
仕方ない・・・



こちらから、
出かけて行って、米軍を叩く!
その海軍伝統の「迎撃ポリシー」戦略を叩き潰してまで、敢行した山本司令長官でした。