「戦国の先駆け」伊勢宗瑞からバトンタッチされた北条氏綱〜「今川の東の要」から関東へ殴り込んだ北条早雲・名門目指して「伊勢」から「北条」へ〜|北条氏康4・人物像・能力・エピソード

前回は「領土という「実を取った」伊勢宗瑞〜伊豆から関東へ・関東に殴り込んだ伊勢宗瑞率いる新参者伊勢家・名門の影響力が根強かった関東・「伊勢」の名の限定的影響力〜」でした。

北条氏康(Wikipedia)
目次

「今川の東の要」から関東へ殴り込んだ北条早雲

戦国大名 北条早雲(伊勢宗瑞)(Wikipedia)

「戦国大名の先駆け」と言われる初代伊勢宗瑞(北条早雲)から、バトンタッチされた氏綱。

足利将軍にもなりうる
圧倒的家格の今川家に介入したぞ!

超名門であった今川家のお家騒動をまとめて、しっかりと今川の家に食い込んだ宗瑞。

伊勢宗瑞殿に、
興国寺城をお任せしましょう!

小さな城といえども、
一国一城の主!

関東勢力図:1516年頃(歴史人2020年11月号 KKベストセラーズ)

興国寺城のある伊豆から、
ジワジワと相模をかすめ取ってやったぞ!

伊勢宗瑞に興国寺城を与えた今川家の頭は、

伊勢宗瑞殿に、
興国寺城を守ってもらい、今川の東の要に!

ということだったでしょう。

「単なる今川の東の要役」だったはずの伊勢宗瑞。

それが関東に殴り込みをかけて、見る間に中規模の勢力となりました。

新歴史紀行
戦国期の国別石高(歴史群像シリーズ 1 織田信長 学研)

1585年頃から1590年頃に行われた太閤検地の結果では、伊豆は7万石程度、相模は19万石程度でした。

その伊豆の城の一つであった興国寺城の石高は、2万石程度と想像されます。

たった2万石でも、
俺が成長させて見せよう!

2万石だったのちの北条早雲率いる伊勢家は、相模に殴り込み、相模の大半を押さえました。

この時点で、25万石程度の小大名となった伊勢家。

2万石から25万石へ、
12倍以上膨張したぞ!

ひとえに伊勢宗瑞の極めて優れた軍事的才能と、宗瑞を支えた家臣団の力でした。

「戦国の先駆け」伊勢宗瑞からバトンタッチされた北条氏綱

戦国大名 北条氏綱(Wikipedia)

名称氏綱は堅実に内政を固めて、財政基盤を作りながら徐々に勢力を拡大してゆきます。

この頃に、守護大名が戦国大名に変質していった時代です。

相模全土を押さえた後は、
武蔵だ・・・

武蔵は米がたくさん取れる、
肥沃な土地・・・

是非とも、我が伊勢家の領土に
してゆきたい!

関東勢力図:1527年頃(歴史人2020年11月号 KKベストセラーズ)

ある程度の規模の大名となり、権威が欲しいです。

ところが、伊勢氏は、武田信玄の武田家のように守護、あるいは守護代の家柄ではありません。

なあなあ、
伊勢って誰?

知ってる?

いや、知らない・・・
最近、急に出てきたよな。

この事態に危機感を持った二代目・北条氏綱。

関東の国人たちを
従わせるには・・・

武力以外に、
権威が必要だ!

どうするか・・・
何か良い手立てはないか・・・

悩みに悩んだ氏綱。

ここで氏綱はパッと閃きました。

そうだ!
名前を変えよう!

思い切って、名前を変えることを考えます。

伊勢ではなく、
権威がありそうな名前は・・・

それこそ、関東管領の上杉氏を名乗りたいですが、すぐにバレてしまいます。

流石に、
「上杉」というわけにはいかないしな・・・

権威があって、
良い名前はないかな・・・

そうだ!
「北条」だ!

「北条」と名乗ることに決めた氏綱。

名門目指して「伊勢」から「北条」へ

新歴史紀行
鎌倉幕府第八代執権 北条時宗(Wikipedia)

もちろん、鎌倉幕府の執権・得宗であった北条家に、ちなんでです。

今日から「伊勢」氏綱ではなく、
「北条」氏綱だ!

北条と名乗れば、鎌倉武士たちは馴染みがあるから、
従いやすいだろう!

この読みは、バッチリ当たります。

なあなあ、
北条家は、最近やたらと強力だな・・・

「北条」ってまさか、鎌倉幕府執権の
北条家に連なる家柄か?

知らないが、
おなじ「北条」だから何か関係あるんだろうよ・・・

本拠地を伊豆の韮山から相模の小田原に移動し、「北条」と名前を変えた「北条」氏綱。

北条家は、猛烈な勢いで扇谷上杉氏を圧迫します。

武田信玄は生まれたばかりで、この頃父 信虎は割れていた武田家中で覇権を争っていました。

戦国大名 武田晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

武田家は、
内輪揉めが続いていて・・・

父 信虎が、
甲斐の各所で戦よ!

武蔵へと侵攻して、武力・経済力・「北条の名前」の3点セットで、どんどん関東武士を従えます。

ジワジワと勢力圏を、広げてゆく北条家。

のちに関東の覇王となった北条家は、鎌倉時代の北条家と区別するために「後」北条家とも呼ばれます。

いわば、早雲が創立し、氏綱が確固とした勢力圏を築き、さらなる飛躍を遂げた北条家。

ついに、1538年頃3代目の北条氏康が登場します。

まだ、織田信長は4歳の幼児、謙信は8歳の少年でした。

戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

まだまだ、戦国の時代は、
始まったばかりよ!

初代・二代目までは優秀だった北条家(伊勢家)を継いだ三代目の北条氏康。

北条氏康とは、いかなる人物だったのでしょうか。

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