典雅で美し過ぎる水海城・今治城〜「今治城の系譜」に対する視線・若き高虎が見た典雅な坂本城・将軍直系だった光秀の築城への思い〜|今治城11・伊予

前回は「築城の先達・明智光秀の美しき水城・坂本城〜裏切り者明智への視線・山城が主流だった戦国期の城郭・信長の岐阜城と安土城〜」の話でした。

目次

若き高虎が見た典雅な坂本城:将軍直系だった光秀の築城への思い

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今治城(新歴史紀行)

上の写真は、堀に映る今治城を撮影した写真です。

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今治城(新歴史紀行)

一般的には、上の写真のように、今治城の全景と共に下部に今治城を映す堀が配置される構図です。

とにかく、水面に映る光景が美しすぎる今治城。

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今治城(新歴史紀行)
藤堂高虎

これまでに数多くの
城の普請をしてきた・・・

藤堂高虎

ここ、今治城は、
我が築城術の集大成とする!

1556年に生まれ、今治城を築城した1602年は、現代の46歳となる年でした。

10代半ばから戦場にいた高虎にとって、戦歴30年となり、不思議なほど多数の城を築城した高虎。

近江出身の高虎は初めは浅井家に仕え、後に織田家重臣の羽柴家に仕えました。

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安土城から琵琶湖を望む(新歴史紀行)

近江・滋賀と言えば、現代でも「まずは日本一の湖・琵琶湖」です。

当時の人にとって、生まれ故郷は最も大事であり、「非情の人」と言われる高虎も、

藤堂高虎

我が近江は、
私の故郷・・・

こう思っていたでしょう。

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坂本城のイメージ(歴史人2020年7月号 KKベストセラーズ)

そして、一時期、信長の安土城、光秀の坂本城、秀吉の長浜城が連なり大賑わいになった近江。

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戦国大名 明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
明智光秀

この光秀は
信長様から坂本城5万石を頂戴した・・・

1571年の延暦寺焼き討ち直後に、坂本城に光秀を配置した信長。

延暦寺に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

「織田家家臣で初めての国持大名」となった光秀でしたが、元々は将軍・足利義昭の直臣でした。

身分が低かったとは言え、将軍直臣から信長家臣に転身した光秀。

当時の、柴田・佐久間・羽柴などの織田家生粋の重臣たちとは「立場が違う」存在でした。

明智光秀

将軍家に連なる
存在だった、この明智・・・

明智光秀

琵琶湖に水城を
築いて見せよう・・・

すぐに坂本城築城に取り掛かった光秀は、1573年頃には概ね完成していたと思われます。

1573年は、1556年生まれの高虎が17歳(現代の年齢)になる年齢であり、

長浜城にいた羽柴家から「水運ですぐ近く」であり、琵琶湖を知り尽くした高虎は、

藤堂高虎

これが、
坂本城か・・・

坂本城を少なくとも数回は見たでしょう。

場合によっては、「長浜城から見えた」坂本城を何度も何度も見たと思われます。

典雅で美し過ぎる水海城・今治城:「今治城の系譜」に対する視線

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本能寺の変(歴史道vol.13 朝日新聞出版)

ところが、その明智光秀は、坂本城完成後10年ほどの頃に、本能寺の変を引き起こしました。

本能寺の変に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

藤堂高虎

あの明智が
叛逆か・・・

戦国最大の大事件である「本能寺の変」は、当時日常茶飯事であった「謀反の一つ」でした。

藤堂高虎

我が羽柴が
明智を倒した!

そして、典雅な水城・坂本城を築いた明智を「倒す側」になった羽柴家家臣・藤堂高虎。

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羽柴秀吉と明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

典雅過ぎる城であった坂本城は、

羽柴秀吉

坂本城など、
消してしまえ!

秀吉の手によって跡形もなくなってしまいました。

藤堂高虎

明智は叛逆者であったが、
あの坂本城は素晴らしい城だった・・・

そして、秀吉の弟・秀長のもとで立身出世し続け、「関ヶ原」では家康についた高虎。

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今治城(新歴史紀行)

今治城の城郭は、典雅に美しく水面に揺らめきます。

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今治城(新歴史紀行)

上の写真は、今治城の堀の水面に映える天守閣のみを撮影した写真です。

このように、城郭だけでなく「水面に映る建築」だけでも、十分に「美し過ぎる」今治城。

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今治城(新歴史紀行)

海に直接接続する今治城の堀は水が絶え間なく動いており、水面も今治城の像も揺らぎます。

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今治城(新歴史紀行)

水面に映る今治城は、季節・時間・天候によって、様々な姿を見せます。

上の写真のように、「儚い美しさ」は、他の城郭では見ることが難しいです。

江戸時代初期の1602年に建築された「典雅で美し過ぎる」今治城。

本来ならば、江戸時代を通じて、「今治城を模倣した城」が多数生まれるはずでした。

戦国武将A

明智、と言えば
裏切り者だからな・・・

ところが、「今治城の先祖」とも言える坂本城を築いた明智光秀は謀反人。

徳川幕府

藤堂藩は、徳川幕府にとって、
譜代に準ずる・・・

徳川幕府

あの今治城と似た城を、
我が徳川・御三家などの・・・

徳川幕府

どこかの城に
典雅な水城を築いてもらいたいが・・・

江戸期を通じて、江戸城や御三家などの城の普請を多数実施した徳川幕府。

当然、美しき今治城を模倣した「徳川流水城」が欲しかったでしょう。

ところが、藤堂高虎は評判が悪すぎました。

徳川幕府

だが、藤堂は
評判が悪過ぎる・・・

徳川幕府

美しき、典雅な水城は
欲しいが・・・

徳川幕府

諸大名から、後ろ指を
指されるのも嫌だな・・・

このように「藤堂の評判」を気にした幕府は、

徳川幕府

城は水城ではなく、
普通に平城で良いわ・・・

「今治城の系譜」となる美しい水城を築城しなかったのでしょう。

戦国から江戸期にかけて、「美的センスと築城術筆頭」だった高虎。

今治城を訪問の際は、ぜひ水面に映る今治城の建築を様々な位置からご覧ください。

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