前回は「「真田の軍略」光る上田城〜真田に煮湯を飲まされ続けた家康・日本の木造城郭建築の典型的造りの東虎口櫓門〜」の話でした。
真田流軍略の総本山・上田城:二度の徳川家への大痛撃

「真田の城」として全国的に有名な上田城。

真田昌幸徳川勢など
蹴散らしてくれるわ!
1585年、本能寺の変の「どさくさ紛れ」で旧武田領を狙った徳川家康。



甲斐と信濃を
奪取するのだ!
当時の勢力圏を考えれば、家康は「甲信地方に向かうしかない」状況でした。



武田信玄を
尊敬しているが・・・



武田家は滅亡してばかりだから、
甲斐と信濃は容易に奪取できよう・・・
こう考えた、家康は、真田昌幸の上田城に「徳川家B級武将」を向かわせました。
ただし、真田勢は約2,000に対して、徳川勢は約8,000の4倍の兵力を投入した徳川家。
「楽勝」と考えていた家康でしたが、



我が真田の軍略を
見せつけてくれる!



な、なにっ!!!
我が軍が敗北だと?!
「楽勝」どころか「大惨敗」したのが徳川家でした。
これを「第一次上田合戦」と呼びます。
そして、1600年、関ヶ原の合戦では、もう一度「上田城の戦い」がありました。
この時、家康自身は東海道を西に向かい、徳川家後継者である徳川秀忠が上田城に向かいました。





真田など、
どうでも良いが・・・



ここは、上田城を
陥落させ、我が武名を挙げるか・・・
この時も、真田勢は2,000ほどであり、対して徳川勢は38,000程度だったと言われます。
つまり、「第一次上田合戦」の4倍と比較すると、19倍であり、圧勝は間違いない状況でした。
ところが、



秀忠など
潰してれるわ!



我が真田の槍を
受けてみよ!



な、なにっ?!!
こんな馬鹿な!!!
15年前の「大敗北」に加えて、もう一度「大敗北」した徳川家。
この戦いを「第二次上田合戦」と呼びます。
「戦国好き」にとっては、たまらないのが上田城です。
そして、「真田流軍略の総本山」と言えるのが上田城と考えます。
「神となった真田」真田神社と上田城:真田六文銭が光る賽銭箱


上田城の内部には、真田神社があり、入るとすぐに大きな鳥居が迎えてくれます。


「ザ・真田」とも言える「赤い兜の六文銭」の大きな模型があります。
この「六文銭の家紋」は、日本有数の「カッコ良い」家紋と考えます。


先に進むと、参拝する神社があります。


真田神社、と言われると納得しますが、「神社」になっている大名はそれほど多くないです。
その中、やはり「真田」は真田「神社」があるのが、真田らしいと思います。


お賽銭入れにも「真田の六文銭」が光ります。


真田神社では、真田信繁(幸村)がメインの扱いとなっています。
確かに、「真田」と言われると真っ先に思い浮かぶのが真田信繁(幸村)です。
キリッとした青年風の真田信繁(幸村)が、なんとも頼もしい武者振りです。
「戦国最強の家」と言っても良い真田家。
次回は、真田神社の内部を色々と回ってみます。

