日本の聖地・延暦寺〜東塔・1200年以上王城と日本を護り続けた地・「現在を体現」する聖地・織田信長の焼き討ちと「不滅の法灯」の行方〜|建築と旅

前回は「剛直な装いの松山城と質実剛健な加藤嘉明〜秀吉の養子・秀勝の小姓へ・奮起・前のめりすぎて大失敗して開けた運命・秀吉の直臣へ〜」の話でした。

目次

1200年以上王城と日本を護り続けた聖地

延暦寺(新歴史紀行)

日本には、いくつか聖なる地がありますが、その一つである延暦寺。

伝教大師・最澄が788年に建立して以来、1200年以上の歴史を持ちます。

伝教大師・最澄(Wikipedia)

天台宗の本拠地であり、法然・栄西・親鸞・道元・日蓮などの各宗派の開祖たちが学んだ比叡山延暦寺。

ここを訪れた際は、たまたま霧が非常に濃い日でした。

歴史的に見ても、延暦寺は極めて重要な存在であり続けました。

王城の地・京の鬼門に当たる北東にズシリと構え、1200年以上王城・京を護り続けたのが比叡山延暦寺です。

天台宗の総本山であり、空海率いる真言宗とは一線を画すも、その影響力は絶大であり続けました。

延暦寺(新歴史紀行)

この霧の濃い光景もまた、「聖なる地」にふさわしいように感じます。

延暦寺へはケーブルカー・バス・自動車などで訪問できますが、今回は自動車で行きました。

戦国大名 明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

明智光秀ゆかりの地・坂本からケーブルカーで登るのも良さそうでしたが、子どもが一緒であることもあり、車です。

実は、最澄の出身地は坂本です。

そして、室町幕府の将軍家が「一時避難していた」場所でもある坂本という場所。

それだけに、少なくとも中世頃までは「坂本は別格の地」だったのでしょう。

のちに信長が光秀を坂本城主にしたのは、光秀を非常に重視し、重用していた証でもあります。

延暦寺(新歴史紀行)

濃い霧によって、自然の光が乱反射されて、崇高な雰囲気があります。

まずは最も有名で広大なエリアである東塔を訪問します。

東塔:「現在を体現」する聖地

延暦寺:大講堂(新歴史紀行)

まずは、東塔エリアの大講堂を訪問しました。

ここでは、延暦寺のお坊さんのお話を伺う機会に恵まれました。

大講堂で一通りお参りすると、お坊さんが、

皆さん・・・
延暦寺の説明をしますから、座ってください・・・

とお話しするので、大勢の観光客の方と共に、周辺に座りました。

そして、お坊さんのお話をお聞きしました。

延暦寺は伝教大師・最澄によって立てられましたが、
大勢の方が関わっています・・・

そして、大講堂内の上部に掲げられた数々の絵を示しながら、

あちらの聖徳太子が・・・
そして、桓武天皇が・・・

聖徳太子や桓武天皇も関わっていた事実をお話いただきました。

延暦寺には伝教大師・最澄が建立した時以来、
ずっと輝き続ける「不滅の法灯」があります・・・

1200年以上ずっと光を放ち続けている「不滅の法灯」があることは聞いていましたが、

ぜひ、根本中堂で
ご覧になってください。

本物の「不滅の法灯」を拝む機会は有り難いことです。

延暦寺:鐘楼(新歴史紀行)

続けて、近くの鐘楼でゴ〜ンと鐘をついて、世界平和を祈願しました。

なかなか「鐘をつく」経験はありませんが、このように自由に「鐘をつける」体験は貴重です。

延暦寺(新歴史紀行)

1200年以上昔に建立され、それ以来様々な建物が建築・改修され続けてきた延暦寺。

その石垣もまた、城郭のように立派で緻密な作りをしています。

のちに、数多くの城郭建築の石垣をつくった穴太衆の出身地は近江です。

それだけに、穴太衆もまた、延暦寺の建築に強く関わったと考えられます。

ここ東塔は、
「現在を体現」する地です・・・

ぜひ、現在に関する
お祈りをして下さい・・・

というお話を頂きました。

織田信長の焼き討ちと「不滅の法灯」の行方

戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

ここで「不滅の法灯」に関して、ふと疑問を感じました。

戦国大名・織田信長が天下統一むけて邁進した時に、敵対した浅井・朝倉を保護した延暦寺と対立します。

戦国大名 朝倉義景(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

当時、朝倉家は越前に加えて若狭を併合し、70万石程度の国力を有していました。

さらに、日本海の海路の要衝である敦賀港などの流通路を押さえていた朝倉家。

その経済力は強力であり、越前武士たちの強さもまた定評がありました。

戦国大名 浅井長政(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

そして北近江で30万石程度を領した若き武将・浅井長政。

浅井・朝倉両家の軍事力を合わせると100万石以上であり、かなりの強敵でした、

おのれ・・・
浅井・朝倉!

高い山であり「聖地」である延暦寺に保護された敵軍に対して、信長は手が出せず、

浅井・朝倉を
下山させよ!

と延暦寺に要求しますが、

断る!
ここをどこだと思っているのだ!

信長の要求を突っぱねた延暦寺。

後に天下人となる信長ですが、この頃は「信長包囲網」によって滅亡しかねないほどの窮地でした。

延暦寺が信長の要求を突っぱねるのもまた当然であり、

守護代ですらない家柄の分際で、
何を言っているのだ?

というのが、延暦寺の本音だったでしょう。

ならば、延暦寺を
焼き払うまで!

激怒した信長は、

延暦寺を焼き払い、大勢の人々が亡くなり、建物もまた焼き払われました。

この時、

延暦寺は聖なる地!
焼き討ちはご再考ください!

と明智光秀が「信長を諌めた」という話が長年有力でしたが、実際はその真逆であり、

延暦寺の僧侶・関係する
人間を撫で切りにしてくれる!

光秀は、むしろ延暦寺焼き討ちに「積極的だった」のが真相です。

この信長の焼き討ちの時に、「不滅の法灯」はどうなったのか、思い切って聞いてみました。

あの時は、「不滅の法灯」は
消えてしまいました・・・

ところが、その約30年前に、山形に立石寺建立の際に、
「不滅の法灯」を分けていたのです・・・

そこで、山形・立石寺から「不滅の法灯」を
再度分けて頂き、「不滅の法灯」は続いたのです。

一度消えてしまった「不滅の法灯」ですが、「分けていた立石寺から再度分けて頂く」ことで「不滅」を保ったのです。

延暦寺の歴史の奥深い側面をみた気がしました。

延暦寺:阿弥陀堂(新歴史紀行)

続けて、東塔エリアの阿弥陀堂を参拝しました。

延暦寺:阿弥陀堂・東塔(新歴史紀行)

付近には「東塔エリア」の由来の東塔が建っています。

この頃、深い霧が少し晴れて、だいぶ見通しが良くなりました。

延暦寺:琵琶湖の眺め(新歴史紀行)

遠くに琵琶湖と街が見えます。

比叡山焼き討ちに加わった織田家の将兵たちもまた、この琵琶湖を眺めたかもしれません。

1200年の長き歴史を持つ聖地ならでは建築たち。

そして、その建築・建物もまた、延暦寺の僧侶・人々と共に「長き・深き歴史を見てきた」のでしょう。

次回は、西塔・横川エリアのご紹介です。

新歴史紀行

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