前回は「自らを神格化した織田信長の「エスカレートした異常な発想」〜「織田家領土獲得トップ」明智光秀・「出雲・石見へ転封」説の真偽・「惟任日向守光秀」の軍事拠点・信長お気に入りの惟住長秀〜」の話でした。
信長の盟友・徳川家康の接待役:織田家No.2の座を確立した明智光秀
20年以上の長年において、織田信長および織田家を支え続けた徳川家康
本能寺の変の直前、徳川家康が安土に来ました。
これが
新たな安土城ですか・・・
素晴らしく豪華絢爛な
城ですな・・・
それまでの日本の城とは全然違う巨大さと豪華絢爛さを持っていた安土城を見て、驚愕した家康。
安土城に家康を招待したのは、他ならぬ織田信長でした。
この1582年に「長年の敵」武田家を家康と共に討滅した信長。
2年前の本願寺制圧に次ぐ「織田家の天下決定の最大ステップ」となり、信長は非常に機嫌がよかったでしょう。
さあさあ、
家康殿・・・
裏切り・反逆が日常茶飯事であった戦国時代において、20年以上の長い時間同盟関係を続けた織田と徳川。
途中から「織田家が格上」であり、この頃は「信長の重臣同様」の格下であった徳川家康。
名前 | 生年(一部諸説あり) |
織田信長 | 1534年 |
柴田勝家 | 1522年 |
滝川一益 | 1525年 |
明智光秀 | 1528年 |
丹羽長秀 | 1535年 |
羽柴秀吉 | 1537年 |
徳川家康 | 1543年 |
信長よりも9歳も年下だったと徳川家康は、当初は今川家の従属大名・部将でした。
織田殿とは
桶狭間の戦いで間接的に戦ったが・・・
桶狭間の戦いの後は、信長の弟役として、
織田殿の躍進のため、
我が徳川家のために、懸命に働いた・・・
長年「織田家および信長に尽くし続けた」人物でした。
そして、この信長の「弟であり超盟友」であった家康を饗応する役目を命ぜられた光秀。
これは、
超重要な役目だ・・・
私が織田家No.2であることを
内外に示すことになる・・・
奮起して、徳川家康を接待し続けていた光秀。
家康殿、
どうぞ・・・
自らを神に擬し、傲慢でもあった信長は「自ら家康の膳を運んだ」と言われます。
これは、信長自身も、
長男の信康に切腹命じたが、
よくぞ家康はついてきてくれた・・・
これからも、これまで同様に
家康とは仲良くしてゆきたい・・・
「徳川と仲良く」と考えていたのでしょう。
この饗応役を光秀に命じたことは、「光秀の織田家における立場」をさらに強化したのでした。
信長から中国出陣を命ぜられた光秀:「秀吉の援軍」ではなく「信長の代理」
家康接待中に、羽柴秀吉から「信長出馬」を求める早馬が来ました。
上様!毛利が大軍で
乗り込んできましたので・・・
上様ご自身大軍を率いて
ご出馬下さい!
ここで、
武田に続いて、
毛利を潰して一気に弾みをつけるか・・・
こう考えた信長は、
まずは優れた武将を
先に行かせて、その後に余が・・・
それには、キンカン頭(光秀)を
行かせるしかない・・・
家康の接待も大事だが、
光秀が準備万端にしたから・・・
他の人物が
後を継いでもよかろう・・・
そして、信長は光秀に対して、中国出陣を命じました。
猿(秀吉)が
備中で困っておる・・・
光秀よ、
猿(秀吉)の援軍へ行け!
はっ!
直ちに!
当時「秀吉の援軍」を命じられた明智光秀。
ここで、「秀吉の傘下に入ることは屈辱的で事実上の左遷」という説があります。
調略や情報収集に長けていた秀吉。
私の情報収集能力は、
日本一です!
当時の戦国日本において、情報収集能力は抜群であったのが秀吉でした。
民衆の力を背景にした、秀吉の底力を上記リンクでご紹介しています。
それに対して、光秀は信長の側で、
信長様は、
このように天下を治めてはいかが・・・
総合的な戦略立案もしていたでしょう。
そもそも、前政権であった足利義昭を1573年に追放して、まだ10年経過していません。
前政権のボスであった足利義昭ですが、1582年当時は、まだ「現将軍」でした。
私は
まだまだ現将軍なのだ!
そして、身分が比較的軽かったとはいえ、足利義昭の家臣であった光秀。
足利義昭が将軍として活動していた時期、光秀と信長は「ほぼ対等」とも言える間柄でした。
「身分が軽い」とは言え「足利将軍直臣だった」明智光秀。
対して、美濃・尾張などの大領土を有する大大名であるとは言え、元々は家格も低い信長。
光秀の立場は「前政権から織田政権への移行」を考えたとき、非常に重要です。
信長様は
私の主人であるが・・・
元々は
対等の立場・・・
義昭様とは、
まだ繋がっているのだ・・・
前政権と織田政権の「架け橋」となる存在だったのが、光秀と細川藤孝でした。
私は、軽い雰囲気の義昭様には
ついてゆけぬが・・・
足利幕府の
重鎮・細川なのだ・・・
いかに秀吉が「織田家随一の出頭人」とはいえ、「信長あっての秀吉」でした。
信長様が
いてこそ、私の存在がある!
光秀は「秀吉の援軍」=「秀吉の傘下」ではなく、
私が上様に代わって、
羽柴殿を助けよう・・・
むしろ秀吉の戦略を「やや上から管理・確認」する「軍監」的立場だったと考えます。
つまり、光秀は「信長出馬の前座」であり「信長の代理」だったと考えます。
中央で対朝廷・幕府に不可欠の光秀:織田家の「敵ではなかった」毛利家
坂本城主から丹波攻略に至る頃に、主に近畿で過ごした明智光秀。
途中、大和・松永久秀叛逆に対する合戦なども出陣を命ぜられ、文字通り八面六臂の戦いをした光秀。
そういうイレギュラーな戦いを含めても、主に京都周辺で人生を送ります。
「近畿管領」の名にふさわしく、京・山城を取り巻くように光秀の領国があります。
私は、
織田家No.2なのだ!
織田家No.1は、
もちろん信長様!
織田家No.2は、
秀吉殿ではない!
織田政権末期において「最大の大名」であった毛利家。
その毛利と戦う秀吉の「織田家における立場の重さ」は重大でしたが、光秀よりは劣っていました。
毛利家は元就が死去後、長男・隆元が亡くなり当主は幼い輝元です。
いかに補佐する吉川元春・小早川隆景が極めて優れていても、毛利家は「おとなしい存在」です。
吉川元春と小早川隆景がいるとはいえ、もはや毛利は大したことはありません。
毛利は「織田の敵ではなかった」程度の存在でした。
「成り上がりもの」の信長にとっては、「領土の広さ」は、もはや大した問題ではなかったでしょう。
毛利の領土は、
広いが・・・
領土の広さは
さして問題ではない・・・
すでに我が領土は500万石を
超えている・・・
石高は大事だが、
更により重要なのは商業なのだ・・・
すでに日本の中枢をほぼ完全に把握していた織田家。
日本の交易の中心である堺を押さえ、交易と流通をほぼ完全に把握していました。
まだ黎明期であった海外との交易・貿易からは、莫大な収益が上がったのでした。
石見銀山は
余が直轄するが・・・
毛利の領土は
家臣に与えても良い・・・
猿(秀吉)にでも
くれてやるか・・・
それよりも、信長にとっては「統一後の自らの政権の確立」が大事でした。
これからの織田家を
考えるには、朝廷・幕府との関係が最重要です!
そんなことは、
分かっておるわ!
とは言っても、朝廷や幕府と直接折衝するのは、信長ではなく、代理である家臣が行います。
朝廷と足利幕府との
折衝か・・・
それには、キンカン頭の
交渉力が大事だ!
その「織田政権のイメージ確立」には、光秀は「全てにおいてうってつけだった」でしょう。
次回は上記リンクです。