前回は「本能寺の変 14〜「出雲・石見へ転封」説・惟任日向守・光秀と信長〜」の話でした。

「秀吉の援軍」の立場
当時「秀吉の援軍」を命じられた明智光秀。

猿(秀吉)が
備中で困っておる・・・



光秀よ、
猿(秀吉)の援軍へ行け!



はっ!
「秀吉の傘下に入ることは屈辱的で事実上の左遷」という説があります。


調略や情報収集に長けていた秀吉。
当時の戦国日本において、情報収集能力は抜群であったのが秀吉でした。
それに対して、光秀は信長の側で総合的な戦略立案もしていたでしょう。
そもそも、前政権であった足利義昭を1573年に追放して、まだ10年経過していません。


そして、身分が比較的軽かったとはいえ、足利義昭の家臣であった光秀。
足利義昭が将軍として活動していた時期、光秀と信長は「ほぼ対等」とも言える間柄でした。
「身分が軽い」とは言え、足利将軍直臣の明智光秀。
対して、美濃・尾張などの大領土を有する大大名であるとは言え、元々は家格も低い信長。
光秀の立場は「前政権から織田政権への移行」を考えたとき、非常に重要です。



信長様は
私の主人であるが・・・



元々は
対等の立場・・・





義昭様とは、
まだ繋がっているのだ。
前政権と織田政権の架け橋となる立場の、光秀と細川藤孝。


いかに秀吉が「織田家随一の出頭人」とはいえ、「信長あっての秀吉」です。



信長様が
いてこそ、私の存在がある!
「秀吉の援軍」=「秀吉の傘下」ではなく、むしろ秀吉の戦略をやや上から確認する「軍監」的立場だったと考えます。


上図は光秀の坂本城主から丹波攻略に至る頃に、主に過ごしたエリアです。
途中、大和・松永久秀叛逆に対する合戦なども出陣を命ぜられ、文字通り八面六臂の戦いをした光秀。
そういうイレギュラーな戦いを含めても、主に京都周辺で人生を送ります。


織田家No.2の立場:近畿管領
「近畿管領」の名にふさわしく、京・山城を取り巻くように光秀の領国があります。



私は、
織田家No.2なのだ!



織田家No.1は、
もちろん信長様!



織田家No.2は、
秀吉殿ではない!
織田政権末期において、「最大の大名」であった毛利家。
その毛利と戦う秀吉の「織田家における立場の重さ」は重大です。
毛利家は、元就が死去後、長男・隆元がなくなり、当主は幼い輝元です。


いかに補佐する吉川元春・小早川隆景が極めて優れていても、毛利毛は「おとなしい存在」です。


「成り上がりもの」の信長にとっては、「領土の広さ」は、もはや大した問題ではなかったでしょう。



毛利の領土は、
広いが・・・



あまり興味は
ない・・・



猿(秀吉)にでも
くれてやるか・・・
それよりも、信長にとっては「統一後の自らの政権の確立」が大事でした。



これからの織田家を
考えるには、朝廷・前将軍との関係が最重要です!



そんなことは、
分かっておるわ!
その「織田政権のイメージ確立」には、光秀は「うってつけだった」でしょう。