本能寺の変 15〜備中へ出陣・秀吉の援軍・前将軍足利義昭の家臣・光秀と信長〜|足利将軍の残影・黒幕説

前回は「本能寺の変 14〜「出雲・石見へ転封」説・惟任日向守・光秀と信長〜」の話でした。

織田信長と明智光秀(新歴史紀行)
目次

「秀吉の援軍」の立場

当時「秀吉の援軍」を命じられた明智光秀。

猿(秀吉)が
備中で困っておる・・・

光秀よ、
猿(秀吉)の援軍へ行け!

はっ!

「秀吉の傘下に入ることは屈辱的で事実上の左遷」という説があります。

羽柴 秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

調略や情報収集に長けていた秀吉。

当時の戦国日本において、情報収集能力は抜群であったのが秀吉でした。

それに対して、光秀は信長の側で総合的な戦略立案もしていたでしょう。

そもそも、前政権であった足利義昭を1573年に追放して、まだ10年経過していません。

前将軍 足利 義昭(Wikipedia)

そして、身分が比較的軽かったとはいえ、足利義昭の家臣であった光秀。

足利義昭が将軍として活動していた時期、光秀と信長は「ほぼ対等」とも言える間柄でした。

「身分が軽い」とは言え、足利将軍直臣の明智光秀。

対して、美濃・尾張などの大領土を有する大大名であるとは言え、元々は家格も低い信長。

光秀の立場は「前政権から織田政権への移行」を考えたとき、非常に重要です。

信長様は
私の主人であるが・・・

元々は
対等の立場・・・

明智 光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

義昭様とは、
まだ繋がっているのだ。

前政権と織田政権の架け橋となる立場の、光秀と細川藤孝。

細川 藤孝(Wikipedia)

いかに秀吉が「織田家随一の出頭人」とはいえ、「信長あっての秀吉」です。

信長様が
いてこそ、私の存在がある!

「秀吉の援軍」=「秀吉の傘下」ではなく、むしろ秀吉の戦略をやや上から確認する「軍監」的立場だったと考えます。

光秀の人生 2(図説明智光秀 柴裕之編著 戎光祥出版)

上図は光秀の坂本城主から丹波攻略に至る頃に、主に過ごしたエリアです。

途中、大和・松永久秀叛逆に対する合戦なども出陣を命ぜられ、文字通り八面六臂の戦いをした光秀。

そういうイレギュラーな戦いを含めても、主に京都周辺で人生を送ります。

丹波平定後の光秀の領地(図説明智光秀 柴裕之編著 戎光祥出版)

織田家No.2の立場:近畿管領

「近畿管領」の名にふさわしく、京・山城を取り巻くように光秀の領国があります。

私は、
織田家No.2なのだ!

織田家No.1は、
もちろん信長様!

織田家No.2は、
秀吉殿ではない!

織田政権末期において、「最大の大名」であった毛利家。

その毛利と戦う秀吉の「織田家における立場の重さ」は重大です。

毛利家は、元就が死去後、長男・隆元がなくなり、当主は幼い輝元です。

吉川 元春(Wikipedia)

いかに補佐する吉川元春・小早川隆景が極めて優れていても、毛利毛は「おとなしい存在」です。

小早川 隆景(Wikipedia)

「成り上がりもの」の信長にとっては、「領土の広さ」は、もはや大した問題ではなかったでしょう。

毛利の領土は、
広いが・・・

あまり興味は
ない・・・

猿(秀吉)にでも
くれてやるか・・・

それよりも、信長にとっては「統一後の自らの政権の確立」が大事でした。

これからの織田家を
考えるには、朝廷・前将軍との関係が最重要です!

そんなことは、
分かっておるわ!

その「織田政権のイメージ確立」には、光秀は「うってつけだった」でしょう。

新歴史紀行

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