「究極の水城」かつ「海城」だった宇和島城〜伊達分家の誇り・嫡男秀宗の「秀の字」を頑なに守り通した伊達政宗・秀吉への思い〜|宇和島城8・伊予

前回は「宇和島城天守閣を抜本再建した宇和島伊達家〜「天下の伊達」の意識・「慶長天守」と現存の「寛文天守」・全く異なる宇和島城天守〜」の話でした。

目次

嫡男秀宗の「秀の字」を頑なに守り通した伊達政宗:秀吉への思い

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戦国大名 伊達政宗(Wikipedia)

戦国の時代に「生まれるのが遅すぎた」と言われることが多い、伊達政宗。

名前生年
毛利元就1497年
北条氏康1515年
今川義元1519年
武田信玄1521年
長尾景虎(上杉謙信)1530年
織田信長1534年
島津義弘1535年
羽柴(豊臣)秀吉1537年
徳川家康1542年
伊達政宗1567年
有名戦国大名の生年

上の著名戦国大名の生年一覧表を見ると、確かに「生まれたのが遅すぎた」伊達政宗。

まだ18歳(数え年、以下同)だった1584年に、伊達家の家督を継いだ政宗。

その時は、本能寺の変の2年後であり、「戦国の山場」は終わっていました。

本能寺の変に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

そして、大坂の陣では、「戦国最後の超名将」として大奮戦した伊達政宗。

大坂の陣の時、伊達政宗は49歳であり、ちょうど織田信長が本能寺の変で自害した年齢でした。

伊達政宗

この政宗が
49歳となったか・・・

名前生年
徳川家康1543年
伊達政宗1567年
徳川秀忠1579年
伊達秀宗1591年
伊達家と徳川家

そして、伊達政宗には側室の子とは言え「嫡男」だった秀宗は、可愛い存在でした。

ところが、「側室の子」であり更に「秀吉のの字」を拝領した秀宗は、後継者にはなれませんでした。

そもそも、「秀吉の秀の字が問題」ならば、「名前を変えればよかっただけ」でした。

ところが、嫡男・伊達秀宗の名前を変えなかった伊達政宗。

伊達政宗

秀吉様は、一世の
英傑であったことは間違いない・・・

伊達政宗が「豊臣(羽柴)秀吉を高く評価していた」のは間違いなかったでしょう。

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初代真田松代藩主 真田信之(Wikipedia)

もともと「真田信」という名前だった真田信は、関ヶ原後に名前を変えました。

幸の字はまずいから、
信幸から信之に名前を変えよう・・・

徳川家康が大嫌いな真田昌の「の字」に遠慮した為でした。

真田家の上田城に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

伊達政宗

豊臣の時代から、徳川の時代と
なったが・・・

伊達政宗

秀宗は秀宗のままで
良いのだ・・・

伊達政宗

なんと言っても、秀吉様の
秀であり、意味も良い!

伊達政宗はこのように考え、「秀宗のまま」を頑強に貫きました。

「究極の水城」かつ「海城」だった宇和島城:伊達分家の誇り

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大御所 徳川家康(Wikipedia)
伊達政宗

家康様・・・我が伊達家は
今後も将軍家を盛り立てます・・・

伊達政宗

そのためにも、我が嫡男
秀宗に、別の伊達家を創設頂ければ・・・

徳川家康

分かった・・・
宇和島に伊達藩10万石をやろう・・・

そして、大坂の陣での大奮戦と、「今後の伊達と徳川」をチラつかせて、10万石を別途獲得した政宗。

伊達家は、本家の62万石に加えて、10万石が別に加わり、伊達家全体では堂々の72万石となりました。

石高本拠地
前田103万石加賀
島津77万石薩摩
伊達62万石仙台
徳川(御三家)61万石尾張
徳川(御三家)55万石紀伊
細川54万石熊本
江戸初期の諸大名の石高上位

上のように、伊達家は、徳川将軍家の天領・直轄領を除く諸大名では、堂々の3位でした。

別となった宇和島・伊達藩を加えても、3位は不動ですが、かなりの経済力を持っていた仙台伊達藩。

これらの大大名と比較すると、10万石が小さく感じられますが、10万石は中規模大名でした。

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宇和島城(新歴史紀行)

現存する宇和島城天守閣は、江戸期に伊達藩が自ら建築した「伊達の城」でした。

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宇和島城(新歴史紀行)

藤堂高虎が建築した宇和島城は、1649年の大地震で大きく破損し、伊達家が全面的に建築し直しました。

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宇和島城(新歴史紀行)

江戸時代において、「天下の伊達」の名声は、大きかったと思われます。

そして、その「天下の伊達」の分家である宇和島・伊達の本城・宇和島城は美しい水城でした。

現在は、埋め立てなどが進み、「陸の中の小高い山の上にある」宇和島城。

元禄16年(1703年)の絵図では、四方のうち、ほぼ東と北が海に面していました。

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今治城(新歴史紀行)

周囲が堀に囲まれた水城である今治城は、水面に城郭が映えて美しいです。

今治城に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

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宇和島城(新歴史紀行)

確かに、現在においても「海がすぐそこ」である宇和島城は、今治城を越える水城でした。

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今治城(新歴史紀行)

かつての今治城もまた、一部が海に面していましたが、海に突き出したような城郭だった宇和島城。

宇和島城は「究極の水城」だったと表現して良いと考えます。

宇和海に「突き出したような城郭」だった宇和島城。

当時の雰囲気は、現在は感じられませんが、「水城」というよりも「海城」と言っても良い宇和島城。

江戸期の宇和島城を夢想すると、「天下の伊達の分家」である誇りを感じられます。

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