前回は「幕府勢力と寺社勢力を支配下においた明智光秀〜大恩人明智光秀を天秤にかけた筒井順慶・大和の寺社勢力を背景にした筒井家・梟雄松永久秀との死闘と光秀の推薦〜」の話でした。
本能寺の変当時の信長の「在京理由」:超弱体化した強敵上杉
本能寺の変の際に、「なぜ信長が京にいたのか?」は様々な説があります。
明智光秀が「謀反を決断した理由」の一つに「信長の国替構想」が挙げられることがあります。
光秀及び明智家が「近江・丹波を召し上げられて、出雲・石見へ」という説です。
近畿の所領を取り上げられ、
地方へ追いやられるのでは・・・
事実上、天下統一を目前としていた織田信長及び織田家。
「信長自身が出馬しなかった」とは言え、上杉謙信に「手取川の戦い」で大敗した織田家。
この戦いが勃発したのは1577年で、武田勝頼を叩き潰した長篠の戦いの2年後です。
いわば、織田家の骨格が固まった頃であった1577年に、織田家が謙信に大惨敗した事実は重要です。
我が越後の騎馬軍団は
機動力が強力だ!
突撃して、織田軍を
叩き潰せ!
守護代出身の名門で超強力であった上杉家でしたが、手取川の戦い翌年の1578年に、
むう・・・
無念だのう・・・
突然、死去してしまいました。
「毘沙門天の化身=謙信」という中核を失った上杉家には大問題があり、「後継者が未定」でした。
そして、上杉景勝と上杉景虎(北条氏政の弟)が熾烈な後継者争いの「御館の乱」が勃発。
御館の乱の影響で、かつての強敵上杉氏は著しく弱体化しました。
我が上杉家が
これほど弱体化したか・・・
悔しいが、
織田家には敵わぬのう・・・
北条家は従属しており、滝川一益の寄騎的存在です。
羽柴秀吉が中国地方へ攻め込み、毛利を圧迫し続けています。
中には、「征夷大将軍への就任を朝廷から持ちかけられた」なども説もあります。
あるいは、毛利を自分一人で叩き潰さず、信長に花を持たせようとした秀吉が、
毛利を倒すために、信長様、
ぜひ御出馬ください!
やはり、
余が行かねばならぬか!
と信長に「出馬の依頼をし、信長が応えて備中へ向かった」説もあります。
このあたりは、後に天下をとった秀吉が「かなりの情報操作」をしているため、真相は不明です。
おそらく、「情報の価値」をこの当時最も重視していた秀吉。(上記リンク)
本能寺の変に関しては、様々な手紙・公家たちの日記が「第一次資料」とされています。
一方で、それらの資料のどこまでが正確なのかどうか。
のちに、天下人となった羽柴(豊臣)秀吉。
余計な資料は
一切焼却せよ!
おそらく秀吉は、かなりの情報操作を命じ、余計な資料の焼却を命じたでしょう。
謀反成功の理由と信長の超合理的思考:「毛利家朝敵指定」の可能性
一方で、当時120万石あまりを有しており、3万人ほどの動員ができた毛利家。
さらに当主・輝元が若く、イマイチ頼りない存在でした。
そして、毛利両川である吉川元春・小早川隆景はいずれも50前後。
元々の能力に加え、九州で立花道雪らと死闘を繰り広げた経験があり、脂の乗りきった頃です。
特に強気だったのが吉川元春は、
信長め!
来るなら来い!
このように、織田家に強い敵対心を持っていたでしょう。
ところが、直前には同程度の版図を有していた武田家が、一気に滅ぼされました。
この時、すでに武田家をはるかに凌駕していた織田家。
慎重な信長は、正親町天皇を動かします。
武田を朝敵に
指定することを強く望います!
あの源氏の超名門武田を
朝敵に・・・
流石に信長の要請とはいえ、
それは出来ない・・・
何がなんでも、
武田を朝敵に!
・・・・・
まあ、
よかろう・・・
正親町天皇から見れば、「超正統派」だった武田家。
信長の圧力に屈した正親町天皇は、「やむを得ず」武田を朝敵指定しました。
我が武田が
朝敵か・・・
弱体化していた武田家にとって、「朝敵指定」は文字通り致命傷となりました。
明治維新の際には、徳川慶喜が朝敵に指定され、一気に戦意を無くしました。
私が
朝敵?
もう
終わりだ・・・
尊王の気持ちが非常に強い水戸出身の慶喜だからこそ、「戦意を大幅になくした」のでした。
勝頼の場合は「戦意を無くした」よりも、周囲の家臣の大規模な離反が痛恨の一撃でした。
上京していた信長は、
毛利を朝敵に
してやろう!
こう考えていたかもしれません。
すでに、
毛利など
敵ではない・・・
超巨大な存在であった織田家。
それでも、武田・上杉と比較すると「大領土を保有してから歴史が長い」毛利。
地元の国衆たちとの結束は、武田・上杉の比ではありませんでした。
まあ、猿(秀吉)一人の軍団では
手に余るかもしれぬ・・・
「確実に上」の立場であった織田家率いた信長。
出来るだけ、
短い時間で手際よく、毛利を片づける!
そのためには、
武田同様に「朝敵」にしてしまうのが一番良い!
超合理的思考の信長。
信長ならば、「毛利氏の朝敵」を本気で考えた可能性は高いと考えます。
次回は上記リンクです。