前回は「「真田の精神」が感じられる上田城〜昌幸の「上田への想い」残る真田石・「真田の采配」に完敗した秀忠〜」の話でした。
日本の木造城郭建築の典型的造りの東虎口櫓門

現在の上田城の事実上の正門である、東虎口櫓門から、上田城内に入ります。
天守閣はすでにない上田城は、この東虎口櫓門が目玉となっています。

昭和以降に少しずつ復元された上田城ですが、櫓門は往時の風合いを残した意匠です。
上田城内部に入ると、真田神社が正面にあり、とても目立ちます。
大勢の人が真田神社に向かいますが、東虎口櫓門の内部に入れるので、さっそく向かいました。
かつては、同様の櫓門が七棟あったと言われています。
本丸の周囲にあった櫓門によって、強固な上田城の縄張りがなされていました。
現在は、東・南・北の三棟の櫓門が残っています。

東虎口櫓門の内部空間は、古来からの日本の城郭建築で使用されていた丸太の梁が印象的です。
「入母屋」と呼ばれる、典型的な屋根の作りで、梁間(短手)と桁行(長手)を太い梁が支えます。

籠城戦の際に、鉄砲を撃ちかける「鉄砲狭間(てっぽうざま)」も復元されています。
この小さな穴から鉄砲を突き出して、鉄砲を撃ちかけ、平面形状が台形になっているのが特徴です。

鉄砲狭間と比較して、やや大きいのが「矢狭間(やざま)」です。
この時は、矢狭間は閉まっていましたが、実際に籠城戦以外の時には、このように開閉可能でした。

櫓門内部には、上田城に関する様々な展示があり、上田城の古地図などがあります。
梁の上に乗る二階の床を支える細い部材を「根太」と呼びますが、根太も丸木が使われています。
真田・仙石・松平の三氏が戦国期から江戸時代にかけて、在城した上田城。
復元に際しては、「木造建築の風合い」を非常に重視しており、好感が持てます。
「真田の軍略」光る上田城:真田に煮湯を飲まされ続けた家康

東虎口櫓門の櫓と門の間の外部空間では、「石落とし場」が見られます。
上の写真のように、大きな穴が開けられており、真下に石を落として戦う場所です。

「石落とし場」を真下に見てみると、往時の戦闘の光景が感じられます。

古来から、多数の籠城戦が行われ、最も著名な籠城戦の一つとも言えるのが上田城籠城戦です。
本能寺の変後の、「天正壬午の乱」と呼ばれる関東甲信地方の徳川・北条・真田の三つ巴の戦い。

本能寺の変直後に、「伊賀越え」の後に「明智打倒」で上方に向かった家康。

なんだ、
もう秀吉が明智を倒したか・・・
「山崎の合戦」の結果を聞き、軍を一度引くことにした徳川家。


本能寺の変の際には、駿遠三の80万石ほどの大名だった徳川家は、



とにかく、ここで
我が領土を広げる!
一気に領土を拡張しようと考えました。
当時、徳川家の向かう先は、西:尾張、北:甲斐・信濃、東:相模がありました。
「西の尾張への侵攻」は、織田家の本拠地であり、まだ織田家が残存している状況で不可能でした。
そして、「東の相模への侵攻」は、北条家との同盟により、消えました。
消去法で「甲斐と信濃」が残った家康は、



武田家を討滅したばかり
だから、甲斐と信濃は混乱している!



武田の旧臣を取り込む
ためにも、甲斐と信濃を攻める!
ひたすら、北へ北へと向かってゆきました。
この甲斐・信濃侵攻において、北条家とも戦うことになった徳川家。



まあ、北条と我が徳川で
甲斐・信濃周辺のことは決めよう・・・



あとは、真田が
おりますが・・・



真田?
ああ、武田家の残党だな・・・



一度は、織田殿に臣従し、
滝川殿の寄騎であったが・・・



裏切った真田か・・・
まあ、たいしたことはあるまい・・・
滝川一益を「見限った」真田昌幸に関する話を、上記リンクでご紹介しています。



この真田の
軍略を見せつけてくれるわ!
おそらく、当初は「重視していなかった」真田に、家康は何度も煮湯を飲まされることになります。


籠城戦を彷彿とさせる、木製の盾も展示されています。
この「戦闘によって傷ついた、荒々しい雰囲気」も良いです。


城門内部の木造建築も、堅牢な構造を成しており、上田城らしさが感じられます。


「真田の上田」として、トップ級の知名度を誇る上田城。
ぜひ、訪れてみてください。