前回は「とてつもない巨城に見える高知城〜山内家による長宗我部色払拭・ほんの僅かの間「四国の覇王」となった長宗我部元親〜」の話でした。
「関ヶ原」で自領・掛川城差し出した山内一豊:領地4倍加増へ

山内一豊によって築かれた、高知城を訪問しました。

山内一豊高知に新たな
高知城を築く!
もともと掛川城で6万石の城主であった山内一豊。
もとは秀吉の子飼いであり、秀吉によって引き立てられた山内一豊。
所が、関ヶ原の合戦では、徳川家康につき、大いなる成果を挙げました。
会津の上杉討伐に向かった「豊臣軍」を率いた徳川家康は、有名な小山会議を開きました。





どうやら、上方で
石田三成が挙兵したようだ・・・



石田三成は失態の挙句、
五奉行筆頭・治部少輔の職を解かれ・・・



拠点の佐和山城に
蟄居していたが・・・



この度、挙兵して
この五大老筆頭の家康に楯突くようだ・・・



これは、幼君・秀頼公を
利用して、石田方が権力を握りたいのだろう・・・
当時、豊臣家重臣の中で、「筆頭」を超えて「圧倒的筆頭」であった家康。
明らかに家康は、



豊臣の次は
我が徳川・・・



まだ十歳にもならぬ
秀頼に何が出来る?
こう考えていたのは、明らかでした。
ここで、直情派の福島正則たちが、黒田長政らに調略されて家康についた話は有名です。



これでよし・・・
福島が付けば・・・



豊臣方の象徴である
福島正則が我が徳川派であれば・・・



このワシが大義名分を
得るのが楽だ・・・
こう考えた家康が、大軍勢の「豊臣軍」を率いて、別の「豊臣軍」を「討伐」に向かうことになりました。
ここで、山内一豊は「驚愕の策」に出ました。



あいや!
徳川殿・・・



我が掛川城と、
我が領地は、上方への通り道にあります・・・
そもそも、一豊が領していた遠江・掛川城は、もともとは徳川家の領土でした。
松平家の本拠地・三河から、少しずつ遠江、駿河に版図を広げた家康。
本能寺の変後には、どさくさに紛れて甲信地方に乗り込んだ家康。
本能寺の変に関する話を、上記リンクでご紹介しています。



そこで、掛川城および
我が領土を徳川家に差し上げる!



山内殿!
その心意気、有り難い!
この山内一豊の「豊臣軍率いる徳川家康が通る領地を差し出す」戦略は、絶妙でした。



これは、後で
山内一豊には大いに報いねば・・・
そして、「関ヶ原」後に、一気に6万石から24万石になったのが山内家でした。
一豊の「異常な意気込み」込められた高知城:とにかく「巨大」な壮観


「関ヶ原」では、家康方についた諸将に「大盤振る舞い」がなされました。
その中でも、山内一豊の「6万石から24万石」の4倍加増は異例でした。
黒田長政の「13万石から52万石」もまた、4倍加増でした。
この黒田への褒賞は、様々な調略に対する恩賞でしたが、実は父の如水が九州では暴れていました。





我が黒田家の軍勢は、
根こそぎ長政が持っていってしまったが・・・



この銭で、働いて
恩賞得たいものは、来い!



この如水が、
九州を平らげるのだ!
家康ベッタリだった黒田長政の父であり、天才軍師の名を恣にした黒田如水。
黒田如水(孝高・官兵衛)に関する話を、上記リンクでご紹介しています。



家康などに
やりたい放題させるか・・・
歴戦の大智将であった如水は、九州の各地の城をどんどん平らげて、領土を広げていました。



な、何っ?
関ヶ原で決戦が、一日で終了?



ま、まさか・・・
一年はかかると思っていたが・・・
東軍・西軍が双方9〜10万人集まった、天下の大決戦であった「関ヶ原」。
如水でなくても、誰が見ても「少なくとも数ヶ月は、時間がかかる」はずでした。



もう良いわ・・・
我が夢は潰えた・・・
ここで諦めた如水は、さっさと鉾を納めて、引っ込みました。



家康殿・・・
東軍のために、この如水、働きましたぞ!
如水が、地元で拡大した領土は諸説ありますが、15万石〜20万石程度はあったと思われます。
ところが、家康は如水に「切り取り」など依頼していません。



それでは、如水殿が切り取った
領地は、家康が受け取りましょう。
そもそも如水が「勝手に切り取った」のは戦国時代ではなく、形式上は「豊臣家の時代」でした。
息子の長政と一緒に「家康側であったこと」を「装った如水」でしたが、



あの老人、
一体誰のために戦っていたのやら・・・



ふふふ・・・
バレていたか・・・
戦国のど真ん中を駆け抜けた超一級の武将であった家康と如水は、裏で火花を散らしていました。
すると、そもそも「如水が拡大していた」黒田の領土に対して考えると「4倍」にはなりません。
実態としては、黒田如水+長政に対して、「1.5〜2倍加増」でした。


早い時点から、家康側についていた藤堂高虎には、「8万石から20万石」の2.5倍加増となりました。
この加増・入封の直後に高虎が築いた今治城の話を、上記リンクでご紹介しています。
こう考えると、山内一豊の「6万石から24万石」の4倍加増は、超異例でした。
「加増倍率」では筆頭となった山内一豊。



6万石から
24万石の大大名へ・・・



よしっ!
大きな城を築くぞ!
そして、山内一豊が1603年に本丸などを築いた高知城。
城郭全体の完成は、1611年と言われています。


街中から見ると「そびえ立つ」ような迫力があるのが、高知城です。
山城にしては低く、平城で「大坂城を超える巨城」にも見える高知城。
天守閣の下に石垣が見えるので、「天守閣が巨大ではない」ことが分かります。
それにしても、異例なほどに巨城に見える高知城。


使用されている石も、非常に立派で迫力があります。
とにかく「大きく感じられる」高知城は、一豊の意気込みが込められているのでしょう。



山内家は
大大名なのだ!
一豊の「異常な意気込み」が。
次回は上記リンクです。





