前回は「「裏切った」明智光秀と丹波〜初めての一国受領・足利と織田の取次から京周辺の権力を握った光秀・織田家の中心であった光秀・九州への国替えの脅威〜」の話でした。
織田家宿老たちの「国替え」の可能性
本能寺の変勃発当時、大勢の家臣たちの「国替えが想定されていた」可能性が指摘されています。
その「大勢の家臣」たちには、柴田勝家・明智光秀らの宿老格の重臣までもが対象と考えられています。
勝家・一益・
キンカンアタマ(光秀)・猿(秀吉)たちの領土を移すか・・・
織田家の新たな
体制づくりだ!
と信長が「考えていた可能性が高い」と指摘されています。
その大きな理由の一つが、
安土城が完成して
3年ほど・・・
今まで何度も
本拠地を移転してきたが・・・
次こそ本命の
大坂の地に我が本拠地を移す!
と信長が本気で考えていた形跡があることが重要なポイントです。
実際、随分前から信長は「大坂+堺」を自分の本拠地として、
「大坂+堺」こそが、
新生日本の中心地だ!
完全な領土化することを目論んでいた形跡が見受けられます。
本能寺の変当時の織田家の諸将および、敵対勢力の配置を考えると「大勢が最前線に行っている」状況です。
それは、当然のことであり、「織田家の天下統一が目前」といえども、
まだまだ、毛利・上杉・長曾我部・
島津など大きな勢力がいる・・・
これらの諸大名で「単独で織田家に対抗できる大名」は不在でしたが、「気になる人物」が一人いました。
信長を
討滅せよ!
「京を追放された」とは言え、現・将軍である第十五代足利将軍 足利義昭。
毛利輝元は
副将軍!
備後・鞆で「新たな政権を樹立したつもり」になって、活動を続けていました。
義昭は相変わらず諸国に御教書を送り続けており、
諸大名が組めば、
織田家を倒せるぞ!
憎き信長を
ブチ倒すのだ!
盛んに「織田征伐」を仕掛け続けており、「将軍家の権威」はまだまだ強力でした。
この時、織田家宿老・諸将たちは最前線で敵を次々に撃破しなければ、天下統一は先送りになるばかり。
とにかく、我が軍団を全国の
最前線へ向かわせ、敵を撃破する!
本能寺の変が勃発しなくても、あと2年ほどは「織田家の統一」まで時間がかかる見込みでした。
それまでの間、秀吉・勝家・一益および寄騎の諸将たちは「最前線へ出動」せざるを得ません。
この時、信長から宿老たちに最前線の領土が渡されていました。
京周辺が良かったが、
関東に行かされてしまった・・・
実際、長年の宿老の一人、滝川一益は関東に移されましたが、それは「戦略上のこと」でした。
対して、非常に恵まれていた、光秀の坂本城の立地などの諸条件。
私は、京周辺を
領土とし、最前線ではなく中央!
上様(信長)は、
私を必要としているのだ!
1579年に光秀が占領した丹波という国は、昔は細川家の領国で重要な地でした。
丹波を光秀が攻め、占領後に光秀に与えられたのは、「信長の既定路線」でしょう。
坂本城が本拠地だった光秀は、
坂本城から
亀山城や本拠地移転!
亀山城に本拠地を移します。
やはり、「京に近い」亀山城を本拠としたことは大きな点でしょう。
新生丹波国をつくろうと考えた光秀
もともと大勢の国人たちが割拠していた統治困難な地であった山国・丹波。
丹波西側に位置する黒井城は、もとは武勇が天下に鳴り響いていた赤井(荻野)直正が領していました。
丹波で最も影響力が高かったのは、八上城の波多野氏。
歴戦の軍事指揮官である光秀も、非常に手こずったのが丹波攻略でした。
比較的順風満帆だった光秀の軍事活動でしたが、丹波では痛撃を喰らいます。
調略により、一時は順調だった丹波攻略。
波多野氏たちの裏切りにより、光秀は敗走します。
まさか・・・
その後、何とか再起して丹波を攻略しました。
丹波攻略は、
実に、実に大変だった・・・
一時は、
死ぬような思いをさせられた・・・
八上城攻略には、大変な時間がかかりました。
八上城は、遠巻きに囲んで、
なんとか落城させた。
光秀が亀山城を主城としたのは、信長の命令であった可能性もあります。
光秀よ。
拠点を坂本城から、亀山城へ移せ!
ははっ!
「本拠地を移動し続けた」信長にとって、「新たな体制に本拠地移転」は不可欠です。
大軍団を率いていた明智家ですが、領土は近江・坂本5万石のみでした。
それが、一気に丹波一国29万石が加増され、5+29=34万石と「7倍近い領土」に飛躍しました。
この時、「明智家は大きな飛躍を遂げ、体制が大きく変わった」時でした。
そこで、「坂本城から本拠地移転」をすることになった明智家。
八上城の波多野氏と黒井城の赤井氏が有力だった丹波国。
丹波占領後は、このどちらかを光秀の本拠地とするのが、合理的です。
それは、「丹波国」を考えるとき、「国内の中心は八上城と黒井城」だからです。
旗頭となる赤井氏、波多野氏を倒した後、光秀は様々な丹波の侍や兵士を配下に加えます。
四王天政孝は、
戦闘能力が高い!
苦労したが、
丹波攻略で、良き家臣も増えたのだ!
領主が変わったとしても、国の中心はすぐに変わるものではないからです。
この意味では、丹波のこれまでの中心地であった八上城か黒井城を拠点とするのが合理的ですが、
八上・黒井の城は
京都から遠すぎる・・・
信長に命ぜられなくても、光秀はこう考えていたでしょう。
そもそも、赤井氏、羽多野氏は「丹波国内で生きた勢力」でした。
「丹波の外」との関係はもちろん重視していましたが、「丹波の外」と自国領を切り離して考えていました。
畿内から東海・甲信・
北陸・山陽へ伸びた織田家・・・
新たな我が拠点は
京から近くなければ・・・
光秀が、「亀山城を新たな本拠地とした」のは自然の成り行きでもありました。
そして、これまでの
丹波国の骨格を変えて見せよう!
「前の主とは異なる」路線を明らかにするために、「拠点変更」はあり得ます。
「新たな国家づくり」を推進していた織田家において、「新たな国づくり」を光秀が志向することは、
新たな丹波国と
するのだ!
大変理に適った考え方でした。
明智光秀叛逆と信長の方向性との大きなズレ:信長と光秀のデザインセンス
この頃の、当時の日本において「抜群の存在」だった織田家。
丹波国の国衆に「主が変わったことを知らしめる」必要などない状況です。
もはや、
織田の天下は揺るぎない!
時間の問題だ!
京に近く、山国ながら、都の典雅さを少し感じられる亀山。
坂本城5万石に加え、丹波国29万石を任せられ、一気に34万石の大名となった光秀。
経済力は7倍となり、明智家は一気に増強されます。
そして、この地に光秀は、優美な水城・亀山城を築きます。
こういう秀吉や勝家にはない、光秀ならではのセンスを信長は愛していたのでしょう。
光秀の
城づくり・街づくりのセンス・・・・・
そのセンスは、
抜きん出ている!
猿(秀吉)や
権六(勝家)では無理よ!
私は、
築城も得意です!
このセンスを持つ人間は、当時、信長と光秀のみだったでしょう。
この最先端のセンスを持っていた信長と光秀の方向性は、大きくずれている面もありました。
上様の築城は
少し南蛮に影響されすぎている・・・
「築城の名手」と言われる秀吉でしたが、この頃は、
蜂須賀たちの川並衆たちの
力でガンガン付け城を作る!
野武士たちを配下にした「付城」戦略が中心で、「建築」より「土木」的要素が強い築城でした。
この「最先端の建築デザイン」の築城術を身につけていたのが「信長と光秀」だけでした。
私の築城術で坂本城・亀山城は
優美で、街も活気だっている・・・
坂本城・亀山城の築城と街づくりで「卓抜たる力」を見せつけた光秀。
上様の命令通りではない、
私の考えの城や街を作ってゆきたい・・・
このように考えた光秀の思考の先は、
信長を
消すしかない!
でした。
このような「築城・街づくりに対する考えのズレ」もまた、本能寺の変の原因の一つでしょう。
次回は上記リンクです。