前回は「彗星の如く幕末に登場した大村益次郎の実像〜光り輝いた「火吹き達磨」村田蔵六の軍事能力・高杉晋作との邂逅・木戸孝允の超強力バック〜」の話でした。

地味な存在の「討幕指揮官」大村益次郎:写真がない西郷と大村


私が、幕軍を討滅した
新政府軍の指揮官・大村です・・・
幕末維新の時期に、薩長勢力を中心とする討幕軍の指揮官であった大村益次郎。
・薩摩:西郷隆盛・大久保利通
・長州:木戸孝允
・公家:岩倉具視
幕末維新といえば「維新の三傑」ですが、筆者は岩倉を加えた「維新の四傑」が良いと考えます。
大村益次郎は、元々は村田蔵六と言う名前で、鋳銭司(すぜんじ)村の大村の村医の家柄でした。
大村の風貌からして、「大村益次郎」よりも「村田蔵六」の方がピタリとします。





蔵六は・・・
蔵六は・・・
筆者が好きな司馬遼太郎は、大村を描いた「花神」で、大村を「蔵六」と呼びます。
確かに、大村の風貌や業績と歴史を考えると「村田蔵六」であり、さらに「蔵六」がピッタリです。
筆者としては、大村中心の人生を考える時は、「蔵六」としたいです。
幕末維新を横断的に考える視点では「大村」としたいので、以下は「大村」とします。
大村の肖像は「肖像画」であって、「肖像写真」ではありません。
幕末維新の英雄たちの中で、「写真がない」のは、大村益次郎と西郷隆盛のみです。





おいどんは、
写真は好かん!
「写真を嫌っていた」と言われる西郷ですが、不自然なほど「全く写真がない」です。
存在しない西郷の写真に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
幕末維新に「呉越同舟」となった薩長の中でも、「犬猿の仲」と言われた西郷と大村。
よりによって、この「西郷と大村のみ写真がない」のも、不思議な縁です。
蘭学を大いに学んだ大村:長州が先鞭つけた討幕


1825年5月3日に生まれた大村益次郎の時代は、徳川幕府の治世でした。



我が父も村の医師だった
ので・・・



私も小さな頃から、
医師を目指して学びました・・・
文政年間であり、文化時代・文政時代で合わせて「化政時代」と呼ばれる時代です。



私が第十一代将軍
徳川家斉である!
小栗が生まれた頃は徳川家斉の治世で、世の中は概ね治っていました。
名前 | 生年 | 所属 |
大村 益次郎 | 1825 | 長州 |
西郷 隆盛 | 1827 | 薩摩 |
大久保 利通 | 1830 | 薩摩 |
木戸 孝允 | 1833 | 長州 |
前原 一誠 | 1834 | 長州 |
高杉 晋作 | 1839 | 長州 |
久坂 玄瑞 | 1840 | 長州 |
伊藤 博文 | 1841 | 長州 |
上の表は、大村益次郎周辺の幕末志士たちの生年をまとめました。
パッと見て、大村が一番の年長者であることが分かります。


幕末維新に、勝手に暴発し、沸騰し続けた長州藩。



徳川幕府を
潰すのだ!



はっはー、
幕府を倒せ!
後に、討幕組を「薩長土肥」と呼びますが、「薩長・土肥」でありました。
さらに、討幕の原動力としては、圧倒的なパワーを有していた薩摩の方が、長州より強力でした。
この意味では「薩長・土肥」となりますが、討幕の歴史を考えると「討幕の導火線に火をつけた」のは長州でした。
討幕の経緯を考えると、「薩長・土肥」ではなく、むしろ「長薩・土肥」の方が相応しいように考えます。
幕末維新を「爆発させた」男・久坂玄瑞に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
薩摩・土佐・肥前の志士たちと比較すると、書生的な若さとパワーを感じさせる長州の志士たち。
この中で、大村と木戸は「大人びた」風格を持っていました。
おそらく、大村は若き頃から、淡々とした性格だったのでしょう。



さてと、
医師になるべく、勉強するか・・・
おそらく、幕末維新の志士の中でも、最も学問が好きだった大村益次郎。
学問を強烈奨励した肥前も、江藤新平など「学問好き」の人物が多いですが、大村は、



学問というのは、
実に面白い・・・



医師になるのは、宿命であるが、
医学は時代の最先端でもあり・・・



最近は、蘭学を学ぶことも
多いらしいから、楽しみだ・・・
地元の長州・防府から豊後などで、蘭方医学や蘭学を学んだ大村。
当時は、「外国の学問」と言えば、蘭学であり、それは、徳川幕府の政策が理由でした。





我が国は
鎖国が国是だ・・・



外国との公式窓口は
長崎・出島だ!



そして、出島には、オランダ人、
中国人、朝鮮人などのみ滞在を認める!
欧州の中で、ただ一つ「徳川幕府公式の外交の窓口」長崎・出島にいることが出来たオランダ。
そのオランダからの書物が、当時の日本を席巻し、「最先端学問=蘭学」でした。



蘭学は実に面白い・・・
数理的に何事も解明できる・・・
若い頃から優秀だった大村は、蘭学を次々吸収して行きました。



医学では、大坂の適塾が
最先端らしい・・・



では、適塾に
入学して、腕を磨こうか・・・
そして、大村は、当時の日本の医学の最高峰機関の一つ「適塾」に向かいました。