前回は「近世を葬った男・西郷隆盛〜幕末の諸外国との折衝・不平等条約を強行したハリス・幕末に颯爽と登場した西郷と大久保・よく分からない西郷という人物〜」の話でした。
存在しない「西郷隆盛の写真」
ちょうど江戸時代末期〜幕末維新にかけて、欧州を中心に写真が流行しました。
欧州からは、ベアトなどの写真家が日本の風景を撮影するために来日し、多数の写真を残しました。
そして、維新の志士たちの多数の写真が残されています。
当時、長州藩の下級武士出身の伊藤俊輔(博文)ですら、若き日の写真があります。
そして、明治維新で最も有名な西郷隆盛。
実は、西郷隆盛の正式な写真は残っていません。
おいどんの写真は、
一枚もないごわす。
上の絵は西郷隆盛の弟・西郷従道などを参考にして、イタリア人画家エドアルド・キヨッソーネが描いた肖像画です。
比較してみると、確かに西郷従道に似ている部分が、西郷隆盛の肖像画には多いです。
それにしても、維新の大功績者である西郷隆盛の写真が「一枚もない」のは不自然な話です。
「西郷が暗殺を恐れた」という話もありますが、その理由も不自然でしょう。
西郷隆盛像を否定した西郷の妻:「近世を葬った男」の実像
上野公園には、有名な西郷隆盛像があります。
この像の除幕式の際、西郷隆盛の奥さんが、
うちの人(西郷)は、
こんな感じではない!
と叫んだのです。
当時の明治政府の超重鎮達が、揃いも揃って発起人に名を連ねて製作した西郷隆盛像。
それにも関わらず、除幕式で「西郷を最もよく知る人物」が大声で否定するのは、穏やかでありません。
むしろ、「異常事態」でしょう。
それでは、西郷隆盛の本当の顔はどうであったのでしょうか。
幕末維新を飾る「最高の英雄」とも言うべき人物の写真が全くないのは、不自然すぎます。
下記のような「西郷の絵」もあります。
大勢の志士の写真と「写真がない」西郷・大村益次郎
当時「写真が貴重だったから」というのはありますが、維新政府の他の要人は全員写真が残っています。
維新直前に亡くなった坂本龍馬ですら、数枚の写真があります。
「西郷が写真嫌いだった」という説もあります。
おいどんは、
写真が大嫌いごわす・・・
彼ほどの著名人は、誰かが撮影するでしょう。
別にポーズを決めなくても、なんらかの撮影のタイミングはありそうです。
当時の写真は、今みたいに「パチリ」と撮って終わりではありませんでした。
露光のために撮影機の前で、しばらく動かずにいる必要がありました。
現代とは異なって、「少しの忍耐が必要であった」写真撮影。
そのため、誰かが西郷隆盛を「パチリ」とは撮れなかったかも知れません。
それでも、「西郷隆盛の写真が一枚もない」のは、不自然すぎます。
明治新政府唯一の、陸軍大将兼近衛都督兼参議です。
一時は「事実上の総理大臣」役であった西郷隆盛。
どこかの写真の端の方にでも、写っていると考えるのが本来でしょう。
ブスッとしていて「撮影されることは好きではない」感じの大村益次郎も、ありません。
明治新政府発足時の大幹部で、写真がないのは、西郷と大村くらいでしょう。
写真なんか、
くだらない・・・
写真の原理には、
大いに興味がある。
のちに西南戦争を引き起こし、一時は政府全体に戦慄を与えた西郷隆盛。
その西南戦争の首謀者として、一時は「賊」となった西郷。
その西郷と薩摩士族たち・西郷を崇める方々に対する政策が、明治政府には急務でした。
西郷隆盛の写真が
残っていると危険だ・・・
まだまだ士族たちの反乱が
起こるかも知れぬ・・・
西郷の写真が偶像崇拝の
ごときになる事態は、絶対避けねば・・・
そして、明治新政府が「西郷の写真を意図的に全て消し去った」としか考えられないでしょう。
若き日の
西郷ではないか?
という写真もありますが、それはまた別の機会に話します。
まだコピー機等が存在していなかった当時は、「複製」は大変な手間がかかります。
さらにネット社会となった今を考えると、当時「写真等を消し去る」のは現代より容易かも知れません。
徹底的に「西郷隆盛の写真を後世に残さなかった」明治新政府。
そのやり方は、ちょっとやり過ぎな感じもします。
最後の将軍・徳川慶喜は、写真好きで数多くの写真があります。
写真
大好き!
明治になってから、写真は趣味を超えて、
プロ級の腕になったぞ!
どうやったら、写真一枚すら後世に残させないようにできるのかが、不思議ですらあります。
ある意味、明治新政府の「この方面での能力」は、卓抜していたのかも知れません。
次回は、西郷隆盛の中央政界での若き日々から考えます。
次回は上記リンクです。