前回は「地味な存在の「討幕指揮官」大村益次郎〜写真がない西郷と大村・蘭学を大いに学んだ大村・長州が先鞭つけた討幕〜」の話でした。

「蘭学の権化」の若い頃:梅田塾と咸宜園から適塾へ

1825年に生まれた大村益次郎(村田蔵六)。
しばらく、大村が当初名乗っていた「村田」で通します。
名前 | 生年 | 所属 |
大村 益次郎 | 1825 | 長州 |
西郷 隆盛 | 1827 | 薩摩 |
武市 瑞山 | 1829 | 土佐 |
大久保 利通 | 1830 | 薩摩 |
木戸 孝允 | 1833 | 長州 |
江藤 新平 | 1834 | 佐賀 |
坂本 龍馬 | 1835 | 土佐 |
中岡 慎太郎 | 1838 | 土佐 |
高杉 晋作 | 1839 | 長州 |
久坂 玄瑞 | 1840 | 長州 |
後に討幕の原動力となる薩長軍の中核の軍事最高指揮官となる村田は、医師の家に生まれました。

私が生まれた時は、
徳川幕府の力が安定していた・・・
村田の生年には、1824年説もあります。
長州藩周防国鋳銭司村に開業医であった父・孝益の家に生まれた村田は、



私も父の後を継いで、
開業医になるのかな・・・
漠然と父の後を継いで、医師になることを考えていました。
現代ならば、「開業医の息子」は恵まれた環境ですが、当時は士農工商の時代でした。
「武士が頂点」であり、その上に各地の大名・旗本が存在し、さらに雲の上に徳川将軍家がいました。
当時の身分秩序から考えたら、「大した家柄ではない」家に生まれたのが村田でした。
父から医学の基礎を学んだ村田は、おそらく若い頃から蘭学を一生懸命学んだのでしょう。
後年に「蘭学の権化」となった村田。



蘭学をもっと
もっと学びたい・・・
「合理性超重視」の村田にとって、蘭学は「もっとも指向性に適合した」学問でした。
そして、長州藩蘭学の大物であった蘭方医・梅田幽斎の塾・梅田塾に入門。
梅田塾で一年ほど学んだ村田は、九州を遊学して咸宜園の門を叩き、儒学を学びました。



一応、儒学の基礎も
学んでおこうか・・・
一般的な素養として、儒学の基礎を学んだ村田、ある程度の自信が出来ました。



蘭学をさらに学びたいが、
それには適塾が良さそうだ・・・
そして、村田は正式名称は適々斎塾という名称であった適塾に入門しました。
1846年のことであり、現代の考え方で村田が21〜22歳になる頃で現代の大学卒業の頃でした。
適塾で西洋兵学に出会った村田蔵六:緒方洪庵と適塾出身の俊英たち





適塾へ
ようこそ・・・



長州藩の
村田蔵六と申します・・・
そして、大坂(当時は大阪は大坂と表記)の適塾に入門した村田。
1810年生まれの緒方洪庵は、1838年に数え年29歳の新進気鋭の頃に適々斎塾を設立しました。
「西洋学=蘭学」であった当時、学問を志す若者たちは、



もっともっと
蘭学を学びたいが・・・



それには、どこの
塾が良いのだろうか・・・
「蘭学をよく理解している師匠」につくことを熱望する人が多数いました。
現代のように、ネットや電話などない当時は、「口コミ」の評価が現代より重要でした。



どうやら、適塾の
緒方先生が良いらしい・・・
若かったにも関わらず、緒方洪庵の適塾は急速に評判を伸ばし、全国から秀才が集まりました。



私は52番目の
入塾生です・・・



一生懸命
学びます!
当時の適塾には、大勢の若者たちが集まりすぎて、とても収容できない規模になっていました。
現代の塾であれば、業務拡張して教室を増やすところであり、当時も同様の発想はあったと思われますが、



私は適塾を
私の目の届く範囲で運営したい・・・
おそらく、緒方洪庵は「事業拡大」と考えず、自分の周囲での教育を目指したでしょう。


そして、適塾からは、村田以外にも福澤諭吉、橋本左内、大鳥圭介らの俊英を生み出しました。
名前 | 生年 |
緒方 洪庵 | 1810 |
村田 蔵六(大村 益次郎) | 1825 |
大鳥 圭介 | 1833 |
橋本 左内 | 1834 |
福澤 諭吉 | 1835 |
他にも、佐野常民、長与専斎など多数の優れた人物を輩出した適塾。
医師であった緒方洪庵による適塾は、「医学への道」というよりも「蘭学への道」でした。
そのため、「医師を目指す」というよりも「蘭学を学びたい」若者が中心でした。



村田くんは、
とても優れていますね・・・
村田が入塾した頃の適塾は、橋本左内、福澤諭吉らが入塾する前で、勃興期でした。
福澤らの頃は、「混雑しすぎて大変な環境」であった適塾は、村田の頃には、



狭い環境だが、
懸命に蘭学を学ぶには最高だ!
塾生が多すぎて、「異常に狭い・混雑した環境」になりつつあった時代でした。
メキメキ頭角を表した村田は、



村田さんには
塾頭になってもらいましょう・・・



承知しました。
お任せください。
当時の緒方塾は、緒方洪庵が塾頭ではなく、若者から塾頭を選抜するシステムでした。
そして、「蘭学のメッカ」適塾で「学生のボス」となった村田。
当時様々な蘭学の書籍があった適塾には、医学以外にも窮理(物理)、舎密(化学)などの書籍があり、



蘭方医学も良いが、
窮理なども面白い・・・



こっちは、西洋兵学の
本か・・・
適塾で西洋兵学の本に出会った村田は、



これは軍制に関する話で、
これは砲術の話か・・・



これは面白い・・・
西洋では、軍事をこのように考えるのか・・・
戦略・戦術において、当時の日本とは全く異なる「合理的軍事学」が進んでいた西洋。
「合理性の権化」村田は、「合理的軍事学」をどんどん吸収してゆきました。
村田の適塾での「西洋兵学との出会い」が、日本の幕末に巨大な影響を与えるに至ります。