前回は「極めて人気が高い闘将・山口多聞の実像〜山口多聞と真田信繁(幸村)への類似した切ない共感・ミッドウェイ海戦・陸軍軍人よりも人気が高い海軍軍人・「悪役」東條英機のイメージ〜」の話でした。
大艦巨砲主義の権化・宇垣纏の実像:戦艦大和への強い思い
海兵40期を9位という優秀な成績で卒業した宇垣纏。
若い頃から、バリバリの大艦巨砲主義者でした。
若い頃から、エリートコースまっしぐらだった宇垣は、重要ポストを歴任しました。
海戦は、
戦艦で決まる!
と考えていた宇垣は、戦艦大和・武蔵の建造を「誰よりも強く推進した」と伝わっています。
戦艦金剛の艦長などを歴任し、
巨大戦艦・大和で
米海軍を叩き潰すのだ!
宇垣は、1938年に軍令部第一部長に就任し、2年ほどの間務めていました。
第一部長は「作戦部長」とも呼ばれ、軍令部内でNo.3の権限を有する超重要ポストです。
連合艦隊などの海軍の作戦に決定的な権限を有する宇垣は、
私が、戦艦部隊を
中心とする作戦を練り上げよう!
と張り切っていたでしょう。
ちょうど、宇垣が軍令部第一部長を務めている頃は、戦艦大和が建造真っ只中でした。
日本海軍の最高機密である「軍機」扱いの戦艦大和建造。
ランク | 名称 |
5 | 軍機 |
4 | 軍極秘 |
3 | 極秘 |
2 | 秘 |
1 | 部外秘 |
宇垣は当然「大和建造を知りうる」立場であり、なんと言っても中心人物の一人でした。
軍令部第一部長から「連合艦隊の中心司令部」参謀長へ
私の大艦巨砲主義を
絵に描いたような巨大戦艦大和・・・
それが
間もなく完成だ!
宇垣の脳裏には、巨大砲塔から撃ちまくる戦艦大和の勇姿がきっと強くあったでしょう。
第二次世界大戦(太平洋戦争)勃発直前には、連合艦隊参謀長となりました。
連合艦隊司令長官であった山本五十六長官は、宇垣とは対局的な考えを持っており、
これからは、
空母・航空隊だ!
戦艦は
無用の長物となる!
と、ずっと以前から考えていました。
これは、宇垣の考え方が「古い」のではなく、当時は「世界の海軍の共通認識」でした。
むしろ、山本の考え方が「斬新すぎた」のでしょう。
空母航空隊を主軸とする作戦を考えていた山本長官。
宇垣くんが軍令部第一部長に
いると、戦艦中心の作戦になってしまう・・・
こう危惧した山本は、
宇垣くんは、第一部長から
退けてほしいのだが・・・
と考えました。
ところが、海軍兵学校の卒業席次による軍令承行令によって、宇垣は「最高ランク」でした。
山本長官のご希望は
分りましたが・・・
宇垣さんを第一部長から
異動させるには連合艦隊参謀長しかありませんが・・・
なんと、「宇垣を第一部長から退けよう」とすると「最も身近な参謀長」になります。
な、なに!?
それは困るな・・・
山本長官は「宇垣参謀長案」を一度は蹴るも、
宇垣さんを異動させるには、
それしかありませんので、第一部長のままで良いですか・・・
・・・・・
やむを得ん・・・
宇垣くんを参謀長として迎えよう・・・
宇垣参謀長を「毛嫌いしていた」山本長官の真意:非優等生への期待
そして、「やむなく」宇垣を連合艦隊参謀長として「受け入れた」山本長官。
ああ、作戦か・・・
それはなあ、山本長官と黒島でやっているよ・・・
宇垣は、山本長官が首席参謀を務めていた黒島亀人とばかり作戦を練っているのを、
私は「お飾り」みたいな
存在でね・・・
「諦観していた」とも伝わります。
このことから「山本長官が宇垣を毛嫌いしていた」説があります。
一方で、必ずしもそうではなさそうです。
海軍兵学校卒業期 | 名前 | 専門 | 役職 |
32 | 山本 五十六 | 航空 | 連合艦隊司令長官 |
36 | 南雲 忠一 | 水雷 | 第一航空艦隊司令長官 |
37 | 小沢 治三郎 | 航空 | 南遣艦隊司令長官 |
40 | 宇垣 纏 | 大砲 | 連合艦隊参謀長 |
40 | 大西 瀧治郎 | 航空 | 第十一航空艦隊参謀長 |
40 | 福留 繁 | 大砲 | 軍令部第一部長 |
40 | 山口 多聞 | 航空 | 第二航空戦隊司令官 |
41 | 草鹿 龍之介 | 航空 | 第一航空艦隊参謀長 |
44 | 黒島 亀人 | 大砲 | 連合艦隊首席参謀 |
対米戦争に真っ向から反対していた山本長官。
米国には絶対に
勝てん!
だが、米海軍と戦争するならば、
それは、人智を超えた作戦でゆくしかない!
と考えた時、「同じ優等生肌」の宇垣参謀長では、
宇垣くんの考えることは
予想できる・・・
であり、「優等生ではない、変わり者」の黒島首席参謀は、
黒島くんなら奇想天外な
作戦を練ってくれそうだ・・・
と考えていたのでしょう。
日本海軍に限らず、「優等生」が上部を占めた世界海軍の首脳部。
日本海軍ほど「卒業席次にこだわらない」米海軍ですが、トップクラスは概ね成績優秀です。
あの巨大すぎる米海軍を
倒すには、普通の作戦では無理なのだ・・・
山本はこう考えていたでしょう。
現に、真珠湾奇襲攻撃の第一航空艦隊司令長官に「自ら就任」を目論んだ山本長官。
真珠湾奇襲攻撃を「強行」した山本長官は、その投機性を最も理解してました。
そして、
まさに
乾坤一擲の大奇襲作戦だ!
「桶狭間」と「ひよどり越え」と「川中島」を
一度にやるようなものだ!
この「桶狭間+ひよどり越え+川中島」を一気にやるのは「不可能」であることは、誰でも分かります。
それしか・・・
それしか、米海軍に勝つ見込みはない・・・
それほど、頭脳明晰な山本長官は追い詰められていたのでしょう。
この中、
戦艦大和・武蔵で、
米海軍を叩き潰す!
という発想の宇垣では、
それでは、米海軍には
決して勝てん!
と山本は思っていたのでしょう。
一方で、第二次世界大戦初頭においては、戦艦大和・武蔵は「活躍の場がもっとあったはず」でした。
この点において、「長官と参謀長」であった「山本と宇垣の考え方の大きなズレ」は「巨大な禍根」でした。
そして、この「ズレ」こそが、第二次世界大戦初頭における日本海軍を象徴していたかも知れません。
大日本帝国海軍の「巨大過ぎる栄光」と「急激過ぎる失墜」を。