前回は「大艦巨砲主義の権化・宇垣纏の実像〜戦艦大和への強い思い・軍令部第一部長から「連合艦隊の中心司令部」参謀長へ・宇垣参謀長を「毛嫌いしていた」山本長官の真意・非優等生への期待〜」の話でした。

ずっと超優等生だった宇垣纏:陸士と海兵に上位合格

1890年に岡山県で生まれた宇垣纏。
父親は農家で教師であった宇垣家は、特に軍人とは関係が薄い家でした。
1890年は、ちょうど大日本帝国憲法が施行された年であり、

我が大日本帝国は、
これから国家が発展してゆき・・・



やがては欧米と
肩を並べるのだ!
「東アジア初の憲法」を制定したと言われる大日本帝国。


明治維新から22年という短期間で、猛烈なスピードで欧化を推進した結果の「一つの到達点」でした。
この1890年頃の大日本帝国において、国民たちは「国家が発展する」のを肌で感じていたでしょう。



僕は一生懸命勉強して、
帝国のお役に立つのだ!
頭脳明晰で、小さい頃から一生懸命学び続けた宇垣纏少年は、ずっと優等生で通しました。



お国ために
役立つには、軍人だ!
持ち前の度胸もあり、軍人のエリートを目指した宇垣纏少年は、



陸軍士官学校と
海軍兵学校の両方を受験しよう!
そして、陸士(陸軍士官学校)と海兵(海軍士官学校)の両方を受験し、



よしっ!陸士も海兵も
上位で合格できた!
陸士も海兵も上位で合格した宇垣少年の学力は、かなり高いものでした。





私は小さい頃から、
陸士目指して一筋!
父親が陸軍中将だった「超エリート東條家」に生まれた東條英機は「陸士一筋」でした。





私は小さい頃から
海兵一筋だ!
小さい頃から、海軍の話を「周囲から聞いていた」説が有力な山本五十六は「海兵一筋」でした。
これに対して、陸士と海兵の両方を受けた宇垣少年にとっては、



陸士と海兵の
どちらが良いか・・・



判断がつきかねるから、
とりあえず両方受けよう!
「とりあえず」の気持ちで、両方受験したのでしょう。
「海兵40期三羽烏」の中心人物:海軍兵学校で優等生継続


当時、陸士と海兵で受験内容に、どの程度の違いがあったかは不明です。
学ぶ内容は、陸軍と海軍で全然違ったはずですが、受験内容は概ね「似ていた」かもしれません。
一方で、全然違う陸軍と海軍では、出題傾向には少なからず違いがあったはずで、



陸士も海兵も
両方受けてやろう!
早いうちに「一本化」せずに、陸士と海兵の両方を受験した宇垣少年の学力と根性は抜群でした。
普通に考えれば、「どちらか合格した方に」だったようにも思いますが、



そして、陸士も海兵も
上位で合格してやる!
後年の宇垣の超強気な性格を考えると、「両方とも上位合格」を狙っていたとしか思えません。
ここで、「海軍兵学校を選択した理由」は不明ですが、



海はずっと近くにあって、
江田島は、すぐ近くだ!
おそらく、日本海にも瀬戸内海にも親しみやすい岡山で過ごした宇垣少年は、こう思ったのでしょう。
そして、



よしっ!
海兵に入学して、海軍でお国のために!
そして、海兵40期卒になる学年に入学した宇垣少年。



海兵に9位の成績で
合格したぞ!
そして、陸士は12位で合格した宇垣少年の学力は、ずば抜けていました。



海兵を、9位の成績で
卒業だ!
そして、同じ9位の成績で海兵を卒業した宇垣纏青年。
一説によると「ずっと不動の9位だった」説もありますが、流石に「ずっと同順位」は難しそうです。
当時は、すでに東大などの帝国大学がありましたが、陸士・海兵は東大と同等でした。
設置年 | 大学名 |
1868年 | 陸軍士官学校(前身の兵学校) |
1869年 | 海軍兵学校(前身の海軍操練所) |
1877年 | 東京帝国大学(帝国大学) |
1897年 | 京都帝国大学 |
1907年 | 東北帝国大学 |
1911年 | 九州帝国大学 |
1918年 | 北海道帝国大学 |
1924年 | 京城帝国大学(韓国、のちに廃止) |
1928年 | 台北帝国大学(台湾、のちに廃止) |
1931年 | 大阪帝国大学 |
1939年 | 名古屋帝国大学 |
そして、欧米列国の軍事力に脅威を感じていた明治新政府は、陸士と海兵を真っ先に設立しました。
現在の東大は、当初は「ただ一つの帝国大学」で「帝大」と呼ばれていました。
帝大より先に設立された陸士と海兵は、文字通り「超エリート」でした。
海軍兵学校卒業期 | 名前 | 専門 | 役職 |
32 | 山本 五十六 | 航空 | 連合艦隊司令長官 |
36 | 南雲 忠一 | 水雷 | 第一航空艦隊司令長官 |
37 | 小沢 治三郎 | 航空 | 南遣艦隊司令長官 |
40 | 宇垣 纏 | 大砲 | 連合艦隊参謀長 |
40 | 大西 瀧治郎 | 航空 | 第十一航空艦隊参謀長 |
40 | 福留 繁 | 大砲 | 軍令部第一部長 |
40 | 山口 多聞 | 航空 | 第二航空戦隊司令官 |
そして、海兵40期は「華の40期」と呼ばれ、多数の著名人物が同期にいました。
海兵40期を次席(2位)卒業した山口多聞に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
海兵40期を20位で卒業した山口多聞に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
ミッドウェー海戦で、苦闘しながらも惜しまれながら戦死した山口。
とにかく、著名人物が多く、「神風特別攻撃隊の生みの親」(諸説あり)と言われる大西もいます。
山口、大西と並び、宇垣は「海兵40期三羽烏」と考えます。
山口多聞、宇垣纏、大西瀧治郎
この三名に対しては、好みが分かれますが、対米戦開戦時には連合艦隊参謀長だった宇垣。
そして、最後の最後まで前線で対米戦を指揮した宇垣纏。



最後は第五航空艦隊
司令長官!
五航艦(第五航空艦隊)司令長官として華々しく戦死した宇垣は、その中心人物でした。
「海兵40期三羽烏」筆頭であり、「連合艦隊の中枢部に居続けた」宇垣。
そして、「戦藻録」という超第一級の資料を遺した宇垣こそ「連合艦隊の顔」と言って良いでしょう。