前回は「戦艦大和のペーパークラフト作成 4〜戦艦大和撃沈・米軍による戦艦大和の片側集中攻撃・甲板と機銃・竣工時には少数だった対空砲火・戦艦大和に増設された対空砲火砲・戦艦から空母へ〜」の話でした。
戦艦大和の対空砲火砲
大和の艦橋側面の防空兵器を作ってゆきます。
早くから「航空戦主体」を唱えて、海軍航空本部長・次官として、日本海軍の航空隊育成を推進した山本五十六。
これからの時代は
空母・航空隊だ!
まだまだ、世界中の海軍が「大艦巨砲主義」であった中、いち早く「航空隊主軸」を推進した山本。
この点だけでも、山本五十六が極めて優れた海軍提督であることは明白でした。
誠実そうな表情の山本は、ブリッジやポーカーなどの博打が好きな側面がある「変わった人物」でした。
ある時、戦艦を作る技師たちに対して、
悪いけど、君たちは
将来失業するぜ・・・
と軽口を叩くほどでした。
つまり、
近い将来、戦艦は
役に立たなくなる!
と考えていたのです。
排気口のディテール:艦艇にとって非常に重要な排気
それほど、航空戦に未来を見ていた山本五十六。
「時代の流れ」だったとは言え、大和竣工時の1941年は世界中の趨勢が「戦艦中心」でした。
そのため、当初は対航空機とも言える防空兵器は少なめだった大和。
艦橋(上の写真の中央長方形)の付近にある対空砲火が出来てきました。
かなり複雑なパーツです。
空気を吸ったり吐いたりする吸気口のようなディテールまで詳細に描かれています。
戦艦や空母は重油を燃やして動力を得ていたので、「排気」は非常に大事なポイントでした。
特に空母では、「上部へ向かう排気」は航空隊にとっては、着陸する際に非常に困ります。
そのため、空母では「排気口は側面」に設置されたのでした。
空母の側面に設けられた排気口からは、猛烈な煙が出ました。
戦艦大和は「航空隊の着陸」を気にする必要がないため、排気口は上に向けて設置されました。
複雑な形状をしっかり作り込んでいるので、作る方も大変です。
大和の艦橋の一部となる部分です。
「戦艦の心臓部」艦橋:大和特攻の伊藤整一第二艦隊司令長官の思い
かなり大きなパーツが出てきました。
このパーツも、小学生の子どもと一緒に作成して、子どもに切ってもらいました。
円形の部分など少し歪なところもありますが、複雑な形状をしっかり作ってゆきます。
先ほど作成した、円柱形の対空砲火の上部に接着して、艦橋の下部ができてきました。
司令部が搭乗し、大和に限らず「戦艦の心臓部」とも言える艦橋。
この部分は、非常に頑丈に作る必要があったでしょう。
のちに大和の海上特攻の際、当時の伊藤整一 第二艦隊司令長官はこの艦橋から指揮しました。
航空隊の護衛なしに、
我が戦艦大和が沖縄に突入するのは不可能・・・
だが、命令が下りた以上、
軍人としてはベストを尽くす!
開戦時に軍令部次長として、山本長官の真珠湾奇襲攻撃に反対を続けた「頭脳派」の伊藤長官。
海軍兵学校卒業期 | 名前 | 役職 |
28 | 永野 修身 | 軍令部総長 |
31 | 及川 古志郎 | 海軍大臣 |
32 | 山本 五十六 | 連合艦隊司令長官 |
36 | 南雲 忠一 | 第一航空艦隊司令長官 |
39 | 伊藤 整一 | 軍令部次長 |
40 | 山口 多聞 | 第二航空戦隊司令官 |
41 | 草鹿 龍之介 | 第一航空艦隊参謀長 |
その後も長く軍令部にいて、「作戦を下す」立場に居続けました。
その伊藤次長は、第二艦隊司令長官として戦艦大和に座乗して、終戦間際の1945年4月6日に沖縄向けて出動しました。
できる限り、
米軍を倒すのだ!
当時、沖縄周辺には多数の米空母が展開し、1000機近い航空機に何度も波状攻撃を受けた戦艦大和。
その戦艦大和が撃沈する様子は、日本に待ち受けていた未来を表していたのかもしれません。
そうした歴史に思いを馳せながら、作成を続けてゆきます。
次回は上記リンクです。