山本五十六の実像〜抜群の知名度「東條か山本か」・連合艦隊司令長官の「狭く弱い権限」・聖将・智将・凡将・愚将の評価・真珠湾奇襲攻撃・ミッドウェイ海戦〜|山本五十六1・能力・人物像

前回は「映画「連合艦隊」3〜宇垣纏と草鹿龍之介・航空艦隊・空母・参謀長・小沢治三郎・山本五十六〜」の話でした。

山本五十六 連合艦隊司令長官(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社)
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山本五十六の実像:抜群の知名度「東條か山本か」

左から東條英機 総理大臣兼陸相、山本五十六 連合艦隊司令長官(Wikipedia)

第二次世界大戦の日本海軍の象徴的存在・山本五十六。

「第二次世界大戦・太平洋戦争の歴史」に蓋をしがちな日本において、その知名度は抜群です。

歴史好きな方は様々な人物を知っています。

一般の方にとっては、「第二次世界大戦の日本」といえば「東條か山本」となります。

そして、知名度においては、「3位以下は不在」かもしれません。

昭和天皇(Wikipedia)

例外的存在としては、「昭和天皇」がいますが、日本人にとっては「天皇は別格」です。

他に有名な方といえば、近衛文麿元首相くらいでしょうか。

そして、「悪玉」である東條英機元首相に対して、「善玉」の見本の様な存在の山本五十六 連合艦隊司令長官。

第二次世界大戦、戦前の日本といえば、「東條か山本か」となります。

連合艦隊司令長官の「狭く弱い権限」

左上から時計回りに、Winston Churchill英首相、J.Stalinソビエト連邦指導者(書記長)、Franklin Roosebelt米大統領、Adolf Hitler独総統(Wikipedia)

この「善玉」と「悪玉」に関しては、昭和海軍と昭和陸軍に対する評価も似た傾向があります。

顔つきからして「悪玉」である東條元首相は、諸外国からみると「ヒトラーと同レベル」なのかもしれません。

ところが「完全な独裁者」であったヒトラー総統・スターリン書記長。

そして、「完全な独裁者」とは言わぬまでも、「超強力な権力者」であったルーズベルト大統領・チャーチル首相。

これらの方々と比較する時、東條英機首相の権限は「非常に狭く・脆弱」でした。

ヒトラーやスターリンと比較する時、事実上、「東條の権力は無きに等しい」レベルとも言えます。

山本五十六 連合艦隊司令長官(Wikipedia)

そして、絵に描いた様な「威風堂々」たる山本長官。

「連合艦隊司令長官」というと「日本海軍のボス」とも考えられがちな存在です。

ところが、実際はそうではありませんでした。

「海軍三顕職」と言われた海軍大臣・軍令部総長・連合艦隊司令長官。

海軍兵学校卒業期職責名前
28軍令部総長永野修身
31海軍大臣及川古志郎
32連合艦隊司令長官山本五十六
海軍兵学校卒業期(真珠湾奇襲攻撃決定時)

最も「かっこいい」存在の連合艦隊司令長官ですが、その権限は非常に限られていました。

名前職責権限
永野修身軍令部総長軍令の最高意思決定者
及川古志郎海軍大臣軍政の最高意思決定者
山本五十六連合艦隊司令長官海戦の指揮者
海軍兵学校卒業期(真珠湾奇襲攻撃決定時)

軍令のトップである軍令部総長、軍政のトップである海軍大臣より権限が弱い存在でした。

つまり、彼らと比較すると、単なる「海戦の指揮者」でした。

いわば「日本海軍の前線司令長官」に過ぎない立場の連合艦隊司令長官。

この「海軍三顕職の中で最も権限が弱い連合艦隊司令長官」は海兵卒業期に現れていました。

軍令承行令という「年功序列」が明文化されていた日本海軍。

最も若い山本が連合艦隊司令長官であり、永野は山本の4つ上、及川は3つ上です。

連合艦隊司令長官は、海軍男児の
誉れだ!

だが、私には非常に弱く、
狭い権限しかない・・・

この「非常に弱く、狭い権限」に最も困惑したのは、山本長官自身だったでしょう。

本来ならば、

私が対米戦の全指揮を
司る!

くらいな気持ちであったであろう山本。

左上から時計回りに、永野修身 軍令部総長、及川古志郎 海軍大臣、伊藤整一 第二艦隊司令長官南雲忠一 第一航空艦隊司令長官(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社、Wikipedia)

ところが、

作戦の軍令の権限は、
ワシだ!

軍政・人事の権限は、
ワシだ!

であり、「頭を押さえつけられた様な状況」であった山本長官。

・・・・・

その結果、真珠湾奇襲攻撃を「ゴリ押し」せざるを得なかった山本長官。

聖将・智将・凡将・愚将の様々な評価:真珠湾奇襲攻撃・ミッドウェイ海戦

沈没する米戦艦ウェスト・バージニア(歴史人2021年8月号 ABCアーク)

「大戦果」であるはずだった真珠湾奇襲攻撃。

ところが、外務省の大失態により、「米国の参戦」の最大の大義名分となりました。

この真珠湾奇襲攻撃に関しては、

大した損害を米海軍に
与えていないから、実施しない方が良かった・・・

という意見もあります。

ただし、山本長官の立場からすれば、

米空部不在は、
残念の極みだが・・・

我が国よりも、遥かに強大な米国と
戦うには、これしかなかった・・・

のでしょう。

この「米空母不在」や「米国が事前に奇襲攻撃を知っていた」可能性から、山本無能説もあります。

Midway島(Wikipedia)

その後、連戦連勝で「破竹の勢い」だった日本海軍。

そして、ミッドウェイ海戦で、痛恨の「主力空母全滅」の結果となった山本長官。

このミッドウェイ海戦は、軍令部が猛反対して断固裁可しません。

それに対して、

ミッドウェイ作戦が裁可されないなら、
連合艦隊司令長官を辞任します・・・

と山本長官が「仄めかした」か、周囲の幕僚たちが「勝手に言ったのか」は不明です。

いずれにしても、周囲の反対を押し切って、「ミッドウェイ海戦強行」した山本長官。

「強行」の結果の大敗北となりました。

ミッドウェー作戦の日本空母(歴史街道 2022年8月号 PHP研究所)

この四空母撃沈後も、日本の空母はまだ多数残っていました。

ところが、山口多聞司令官など百戦錬磨の将軍が多数戦死。

そして、前線の技量優れたパイロットたちの多くが戦死してしまいました。

人口が多く、国力が高い米国の立場であれば別として、人口が少なく国力が弱い大日本帝国。

この時点で、「連合艦隊の戦力は半減した」と言っても過言ではないでしょう。

そして、この後、ジリジリと米海軍に押され続けた日本海軍。

最後には1943年4月18日に、山本長官自身はブーゲンビル島・ショートランド島に向かいます。

米海軍と「激戦」というよりは、「苦戦を続けていた」将兵たちを激励するためです。

そして、その向かう途中、

Yamamotoを
撃ち落とせ!

事前に暗号解読をしていた米軍が待ち受け、撃墜された山本長官機。

そして、山本長官は戦死しました。

真珠湾奇襲攻撃の中途半端な戦いや、ミッドウェイ海戦の押し切った結果の大敗戦。

このことから、山本長官を凡将、あるいは愚将と呼ぶ方もいらっしゃいます。

第一航空艦隊旗艦 空母赤城(Wikipedia)

早い時期から「空母・航空隊の未来」を見据えた山本長官。

これからは、
空母と航空隊が主軸となる!

戦艦は無用の長物と
なる!

と考え、航空本部長(海軍次官同格)、海軍次官において、空母・航空隊の整備を進めた山本。

そもそも、山本が愚将であったら、「この様な達見」は持ち合わせないはずです。

そして、山本が不在であったら、日本海軍は「米海軍と戦争ができる状況にはなかった」でしょう。

この時、「米国の要求を呑む」ことも選択肢の一つですが、それは当時では「亡国」につながる選択でした。

米国大使館付武官時代の山本五十六:1925年頃(Wikipedia)

長年にわたる米国駐在の経験。

1934年のロンドン軍縮条約に海軍首席代表として出席する山本五十六(Wilipedia)

更には、軍縮条約に日本海軍代表として出席し、

Yamamotoは、
他のJapaneseとは全然違う・・・

Yamamotoこそが、
Japanの海軍で最も目をつけておく存在だ!

日本国内よりも、むしろ海外で高い名声があった山本五十六。

そして、「日本海軍のシンボル」であった山本五十六。

このことを考える時、「米海軍と正面切って戦う司令長官は、山本しかいない」のが実情でした。

シンボルであり聖将であった山本五十六。

極めて優れた能力を有していたと言えるでしょう。

そうでなければ、「空母航空隊への転換」という発想は持ち合わせることも実行することも不可能でした。

あまりにも「米国が強過ぎた」ために、不当な評価が与えられることもある山本五十六。

彼こそは、歴代日本海軍最高の人物と言って良いでしょう。

新歴史紀行

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