前回は「「際立った美」を持つ今治城〜裏切り続けた東堂家・「強き者が世を治めるのは当然」の高虎流処世術・加藤清正との違い〜」の話でした。
山城が主流だった戦国期の城郭:信長の岐阜城と安土城

水城、というよりも、瀬戸内海と接続した日本でただ一つの「水海城」である今治城。

1602年に藤堂高虎によって築城された水城は、当時はレアな形式でした。

戦国時代中期までは、城といえば山城が中心でした。
領国の略中央部に位置する、支配する大名が「周囲を睥睨する」ように立つ城が最も多いタイプでした。

織田信長この信長の本城は、
尾張の清洲城から小牧山城へ移動し・・・



美濃を併呑した後は、
斎藤氏に倣い、稲葉山城を拠点とする!



そして、この稲葉山城を
今後は岐阜城と呼ぶ!
織田家は、その勃興期において、岐阜城となった山城・稲葉山城を拠点としました。
岐阜城に関する話を、上記リンクでご紹介しています。



この謙信の
本拠地も山城だ!
平地である関東地方に、「関東管領」として度々殴り込みをかけていた上杉謙信。
結局、謙信はどこまでも「越後の王」であり続け、稲葉山城から動きませんでした。


そして、織田家の影響力が強まった上で、



次は、近江に
安土城を築く!
武田氏に長篠の戦いで痛撃を与えた1575年の翌1576年から、信長は安土城築城を指示しました。


琵琶湖に程近い安土城は、「水城に近い」形式とも言えます。


琵琶湖は逐次埋め立てられたため、信長のころは、さらに琵琶湖と密接に繋がっていた安土城。
その一方で、上の絵を見ても、安土城は、水城というよりも山城であるのが明白です。



織田家の影響力を
周囲に見せつけるのだ!
おそらく、信長の発想はこのように「山城的発想」だったでしょう。
安土城に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
武田氏は平城である躑躅ヶ崎館、北条氏もまた平城・小田原城を拠点としました。
戦国中期までは、「山城が主流で、ついで平城」と言えそうです。
築城の先達・明智光秀の美しき水城・坂本城:裏切り者・明智への視線


戦国期中期において、著名な水城に坂本城があります。


坂本城は本能寺の変後の明智家滅亡の際に、灰燼に期してしまい、資料も遺跡も極めて少ないです。
そのため、坂本城に関する上のイメージ図は、多分に想像によるものです。



新たな世に向けて、
新たな城をつくるのだ・・・
・加藤清正
・藤堂高虎
築城術において、「築城二巨頭」の先達格であった明智光秀。
光秀は、坂本城、亀山城などの名城を築城しました。



籠城にも耐え、
典雅な城にするのだ・・・
このように考えたに違いない光秀。
光秀の築城術に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
延暦寺の起源にも関わり、特別な地であった坂本。
延暦寺に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
この美しい水城の起源である坂本城は、本来もっと模倣されるべきでした。
ところが、



明智、と言えば
裏切り者だからな・・・



裏切り者の城は
模倣しても仕方ない・・・
このようなイメージで、「坂本城の水城の美」は広まらなかったと考えます。





