前回は「日本の聖地・延暦寺〜東塔・1200年以上王城と日本を護り続けた地・「現在を体現」する聖地・織田信長の焼き討ちと「不滅の法灯」の行方〜」の話でした。
猛烈な影響力を持っていた延暦寺:東塔=現在・西塔=過去・横川=未来
延暦寺の東塔エリアを訪問しました。
根本中堂や大講堂がある東塔エリアは、延暦寺のメインエリアで最も観光客が多いです。
天台宗の本拠地であり、法然・栄西・親鸞・道元・日蓮などの各宗派の開祖たちが学んだ比叡山延暦寺。
王城の地・京の鬼門に当たる北東に、長きに渡りズシリと構え続けました。
日本の歴史において、猛烈な影響力を持ち続けたのが延暦寺です。
皆さん・・・
延暦寺の説明をしますから、座ってください・・・
たまたま延暦寺に所属するお坊さんの講話を聞くことができました。
ここ東塔は、
「現在を体現」する地です・・・
ぜひ、現在に関する
お祈りをして下さい・・・
そして、西塔は過去を、
横川は未来を体現しています・・・
多くの方は、この東塔のみ訪問して
帰られますが・・・
ぜひ、西塔と横川にも
お立ち寄り担って、過去と未来にお祈りをして下さい・・・
エリアそれぞれに現在・過去・未来を体現する意味があります。
東塔(とうどう):現在
西塔(さいとう):過去
横川(よかわ):未来
そこで、当初「東塔エリアのみ」の予定でしたが、予定を変更して西塔と横川にも向かいました。
西塔エリアは、観光客が少ないこともあり、延暦寺らしい荘厳さが強く感じられます。
西塔には浄土院があり、美しい枯山水を見ることができます。
この「たくさん樹木があるのに、落ち葉ひとつない」極めて美しい庭。
この庭を毎日掃除している修行僧の方がいらっしゃいます。
枯山水は多数ありますが、ここ延暦寺の枯山水は「別格」の雰囲気を持っています。
長き歴史に君臨し続けてきた延暦寺の抜群の影響力と歴史の深さを物語っています。
「天下の延暦寺」に挑戦した織田信長:掃除地獄と侍真
最下鈍(さいげどん)の者も十二年を経れば
必ず一験を得ん・・・
この最澄の言葉に基づく「十二年籠山行(ろうざんぎょう)」があります。
これは文字通り、「十二年比叡山に籠り続ける修行」です。
そして、浄土院を徹底して清める修行があり、「掃除地獄」と例えられます。
浄土院に詰めて、勤行などを行う僧侶は「侍真(じしん)」と呼ばれます。
侍真は「最澄が存命している」として支え、外部との関係を絶って修行を続けます。
道を修めようととする心を
持つ人こそ、国の宝・・・
この日も、延暦寺をくまなく清掃する修行僧たちが多数いました。
東塔エリアと比較すると、西塔エリアは非常に人が少なくなりました。
そして、横川エリアになると更に人を見かけることが少なくなります。
そして、静謐な雰囲気の延暦寺の荘厳さが増してきて、周囲の樹木の生命力も力強くなってきました。
朱色が際立つ横川中堂を参拝して、「未来に対するお祈り」をしました。
浅井・朝倉が
延暦寺に篭っているだと・・・
どうやら、延暦寺が
浅井・朝倉に加担しているようです・・・
浅井・朝倉軍と対峙した織田軍でしたが、浅井・朝倉軍は延暦寺に乗り込み、頑強に抵抗しました。
ならば、延暦寺を
焼き払ってやるまで!
そして、「天下の延暦寺」に挑戦し、本当に焼き払ってしまった織田信長。
延暦寺には「不滅の法灯」がありますが、さすがに「信長の焼き討ち」では消えたはずです。
延暦寺の全てを
焼き払ってしまえ!
実際に、お坊さんに尋ねてみると、
あの時は、「不滅の法灯」は
消えてしまいました・・・
ところが、その約30年前に、山形に立石寺建立の際に、
「不滅の法灯」を分けていたのです・・・
そこで、山形・立石寺から「不滅の法灯」を
再度分けて頂き、「不滅の法灯」は続いたのです。
一度消えてしまった「不滅の法灯」。
「法灯を分けていた立石寺から再度分けて頂く」ことで「不滅」を保ったのです。
1571年に焼き討ちされた延暦寺は、その後、京に君臨する織田信長のすぐ近くで逼塞し続けたでしょう。
1582年に本能寺の変が勃発するまでは、延暦寺にとって「苦難極まりない時代」だったでしょう。
おそらく、延暦寺は「信長を倒す」勢力と連絡を取って「反織田」の中心勢力であったはずです。
信長を
倒すのだ!
光秀か・・・
是非もなし・・・
そして、信長が本能寺の変で倒れると延暦寺は息を吹き返し、豊臣・徳川の時代を生き抜き、現代に至ります。