光秀+秀吉の「夢の共演」の対毛利戦〜織田家の西を固めた光秀と秀吉・「付け城戦略」を大規模に展開した織田家・織田四天王と「付け城戦略」〜|光秀と秀吉6・人物像・能力・エピソード

前回は「「付け城戦略」を最も重視した明智光秀と羽柴秀吉〜織田家得意の「大規模付け城戦略」・抜群の経済力が成す軍略・地味な存在ながら超強力だった朝倉家〜」の話でした。

明智 光秀と羽柴 秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

「付け城戦略」を大規模に展開した織田家

秀吉の鳥取城攻め(図説 豊臣秀吉 柴裕之編著 戎光祥出版)

中期〜後期織田家の「得意技」とも言える「付け城戦略」。あるいは「包囲網戦略」。

織田家以外の大名も付け城を構築する戦略を取ることがありましたが、織田家の「付け城戦略」は別格でした。

攻める敵の本拠地・拠点付近に、自国の砦・小規模の城を作る「付け城戦略」は、非常に効果的です。

合戦・戦争というと、槍・弓・騎馬・鉄砲など様々な部隊がバンバン戦うイメージが強いです。

実際、その「直接衝突」で戦いの雌雄が決されますが、合戦には持久戦の要素が強いのも事実です。

川中島第N次の戦い
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川中島の戦い年表(新歴史紀行)

5度も熾烈な戦いを繰り広げた、武田信玄と上杉謙信の「川中島の戦い」。

足掛け11年にも及んだ長期間で、たびたび両軍は戦いを繰り広げました。

戦国大名 武田信玄(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

川中島から謙信を
駆逐して、信濃を完全に武田のものに!

戦国大名 上杉謙信(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

村上義清に頼られた以上、
侵略続ける信玄は許せん!

この「川中島の戦い」において、激戦となったのは「第四次」で他の戦いは概ね「睨み合い」でした。

そして、敵の本拠地・拠点付近に「付け城」を構築する戦略は「敵の弱体化」において、極めて効果的でした。

ところが、武田・上杉クラスの大大名と言えども、

新たな砦を
築くのは、費用がかかりすぎる・・・

が本音でした。

戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

対して、当時の日本の中枢を抑え、現金収入が飛び抜けて多額であった織田家。

付け城を作る
費用が多額になろうが構わん!

すぐに回収して
見せるわ!

織田家は「付け城戦略」を「大規模に展開した」ことが大きな特徴でした。

織田四天王と「付け城戦略」

織田家重臣 羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

秀吉は中国攻めで、そして光秀は丹波攻めで、この方式で籠城戦を戦い抜きます。

一気に合戦で雌雄を決するより、
「付け城」戦略は合理的だ!

そして、長い時間・エネルギー・費用を掛けて、強敵を次々と下してゆきます。

敵の周囲にどのように
付け城を作るか・・・

ここが頭の使い所であり、
そういうのは得意だ!

非常な苦労が多く、多額の金銭がかかる「付け城」戦略。

一方で、「合戦で敗北する可能性」を最小限にして「確実に勝つ」戦略です。

織田家重臣 明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

私は軍事能力も高く、
合戦の指揮能力にも自信がある・・・

そして、「付け城」戦略は、戦略的に
敵を包囲して、弱体化させるのが合理的だ!

敵の拠点・本拠地付近に付け城を構築する規模によりますが、織田家は非常に特徴的でした。

織田家の「付け城」戦略は、「付け城で敵を大規模に包囲する」戦略でした。

織田家重臣 柴田勝家(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

この土木的な大規模な手法は、柴田勝家・滝川一益たちはあまり行っていません。

「付け城」戦略は効果が高い
ようだが・・・

どうも、ワシは
その戦略は性に合わんな・・・

柴田勝家のような典型的闘将タイプにとって、付け城戦略は有縁だったかもしれません。

ワシは一気に
敵を叩き潰す方が好きだな!

なんと言っても、ワシは
「甕割り柴田」だからな!

新歴史紀行

織田家重臣 滝川一益(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

私は諜報戦略や
調略は非常に好む・・・

持久戦が大事なのは事実であり、
付け城を作るのも、なかなか良さそうだが・・・

柴田よりは滝川の方が、「付け城」戦略との相性が良さそうです。

ところが、滝川はそれほど付け城戦略を多用しませんでした。

伊勢を攻略した後の、滝川軍団の位置付けが遊撃隊的存在であった理由も大きいでしょう。

光秀+秀吉の「夢の共演」の対毛利戦:織田家の西を固めた光秀と秀吉

新歴史紀行
元亀騒乱時における近江勢力図(戦国合戦大全上巻 歴史群像シリーズ 学研)

後期織田家の司令官クラスの武将たちは、全国で大規模な戦いを繰り広げました。

名前生年(一部諸説あり)
織田信長1534年
柴田勝家1522年
滝川一益1525年
明智光秀1528年
丹羽長秀1535年
羽柴秀吉1537年
徳川家康1543年
織田信長・織田家重臣・徳川家康の生年

徳川家康は独立大名ですが、織田家に半従属・臣従したような存在で、方面軍司令官の役割でした。

この中では、光秀・秀吉が最も多く「付け城戦略」を実施しました。

光秀・秀吉のどちらが先に大規模に実施したのか?は、大いに興味があるところです。

戦略を指示したのは信長ですが、現地の取りまとめは、基本的に全て彼らに任されています。

付け城戦略は
浅井・朝倉の頃から私がやってきた!

私は当初、将軍家と織田家の
関係構築に奔走した・・・

羽柴殿の方が、「大規模付け城戦略」は
先かもしれませんが、私も得意です!

光秀・秀吉ともに、この「大規模付け城戦略」を多く採用していた事実。

この事実から、光秀・秀吉の軍事に関する指向性は似ている部分もあったように思います。

ライバルであり、互いに競っていた関係だった秀吉と光秀。

共に「中途入社組」と表現されることが多い秀吉と光秀。

やはり秀吉の方が信長に仕えている期間が遥かに長い意味でも、秀吉はバリバリの生え抜きです。

その意味では、40歳ほどで織田家に仕え始めた光秀に対して、秀吉の方に分があります。

1582年の織田家勢力図(別冊歴史人 「戦国武将の全国勢力変遷地図」KKベストセラーズ)

本能寺の変当時、安土・京を中心と考え、羽柴・明智・柴田・滝川の配置を考えましょう。

東側には「柴田勝家・滝川一益」を配置します。

対して、西側に「羽柴秀吉・明智光秀」となります。

これは「敵対する大名を倒すための人選」でした。

柴田・滝川は長年の仲良しで、滝川一益の夫人が柴田勝家の妹・血縁者という説もあります。

羽柴と明智は共に頭を使う方が得意であることから、実際は比較的仲は良かったのかもしれません。

猿(秀吉)とキンカン頭(光秀)は
組ませると面白いかものう・・・

信長もこのように考えていたかもしれません。

織田四天王の中で「秀吉と組める」のは、消去法で「秀吉大嫌い」の柴田と滝川が消えて、明智だけです。

光秀と秀吉が「ライバルであった」のは事実でしょうが、「険悪だった」という証拠はなさそうです。

すると、織田家最大の出世頭であった光秀と秀吉が「組んで戦う」のは、非常に合理的発想であり、

どこかで、猿(秀吉)とキンカン頭(光秀)を
大きな合戦で組ませるか・・・

と信長は考えていたかもしれません。

ひょっとすると、その「光秀と秀吉の共演」の場が「対毛利の大決戦」であったかもしれません。

そして、信長は光秀に対して、

家康の饗応役も良いが、
光秀は秀吉と組んで、一気に毛利を潰せ!

ということだったようにも思えます。

のちに山崎の戦いで雌雄を決した、光秀と秀吉。

この二人の実際の織田家における立場を考える時、「後期織田家の本当の姿」が垣間見えるように思います。

新歴史紀行

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