川中島奪取に異常にこだわった武田信玄〜執拗すぎた武田の川中島侵攻・痛恨の打撃を受けた武田家・なんとか有利に持ち込んだ「川中島」〜|武田信玄10・戦術・軍事能力・エピソード

前回は「信濃全土占領で「弾みをつけたかった」武田信玄〜武田駆逐の「強いテンション」を持っていた長尾景虎・武田家の致命傷となった「武田典厩信繁戦死」〜」の話でした。

武田晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

川中島奪取に異常にこだわった武田信玄

1542年頃の武田家領土および周辺(歴史街道2020年11月号 PHP研究所)

今回は武田信玄が、なぜあれほどまでに川中島に拘ったのかを考えます。

武田信玄

とにかく、
川中島を全土奪取!

春日山城から程近く、売られた喧嘩を買った長尾景虎(上杉謙信)。

戦国大名 長尾景虎(上杉謙信)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

なんとしても、武田信玄が川中島を占領するのを防ぎたかったのでしょう。

第N次
第一次1553年
第二次1555年
第三次1557年
第四次1561年
第五次1564年
川中島の戦い

武田信玄は5度も川中島へ侵攻し、最後は痛み分けに近いものの、その領土をある程度確保します。

そして、武田は「やや勝ち」に持っていきました。

この点は、「防衛線としての強いテンション」を持っていた景虎と言えど、

上杉謙信

ここで、ここで絶対に
踏ん張らねばならん!

上杉謙信

だが、甲軍(武田軍)の方が
我が越後軍より多い・・・

武田の方が動員力が優っており、常に武田軍が優勢でした。

武田信玄

何がなんでも、
川中島を占領するのだ!

しつこいほどの勢いで、何度も何度も川中島に攻め込んだ武田信玄。

痛恨の打撃を受けた武田家:なんとか有利に持ち込んだ「川中島」

武田家重臣・武田信玄弟 武田 信繁(Wikipedia)

とにかく、一進一退を続けた川中島の合戦でしたが、

武田信玄

なんとか
武田の「やや勝ち」だな・・・

武田家がやや有利に合戦を進めて、最終的には「川中島ほぼ奪取」に成功した信玄。

しかし、その代償は極めて大きなものとなりました。

武田家の超有力重臣であった弟・武田典厩信繁が戦死してしまったのでした。

後世には景虎が戦国最強の軍神であることがわかりますが、当時、景虎の能力は未知数でした。

上杉謙信

全身全霊で、
武田と戦う!

名前生年
毛利元就1497年
北条氏康1515年
今川義元1519年
武田信玄1521年
長尾景虎(上杉謙信)1530年
織田信長1534年
戦国武将大名の生年

武田信玄は9年年下(学年としては8年)の謙信を相手にした時、

武田信玄

景虎は、
9歳も年下の小僧!

「自分の方が上」だと確信していたのでしょう。

武田信玄

ワシの采配に
叶うはずがない!

結果的に、時間とエネルギーの多大な消耗に加え、

武田信玄

信繁に加えて、
多数の将兵が戦死してしまった・・・

かけがえのない家臣と将卒を失うことになります。

執拗すぎた武田の川中島侵攻

川中島の戦い(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

この図を見ると、いつも同じようなところで戦っているのがわかります。

この狭い世界で、双方合計3万以上の軍勢が何度も何度も戦ったこと。

それは、日本の歴史においては、非常に稀有なことでした。

第四次川中島の戦い(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
武田信玄

何がなんでも、
川中島が欲しい!

「とにかく川中島制圧」を考えた晴信。

それは、単なる「領土拡張への意欲」では説明しきれない、執拗な執念があったのでしょう。

武田信玄

川中島を得ることが、
我が武田繁栄の基礎になるのだ!

こう考えたとしか思えない「執拗すぎた武田信玄の川中島侵攻」でした。

次回は上記リンクです。

新歴史紀行

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