「付け城戦略」を最も重視した明智光秀と羽柴秀吉〜織田家得意の「大規模付け城戦略」・抜群の経済力が成す軍略・地味な存在ながら超強力だった朝倉家〜|光秀と秀吉5・人物像・能力・エピソード

前回は「「戦国武将の責務」を卓抜たる能力で遂行し続けた明智光秀と羽柴秀吉〜織田の天下が見えてきた時の異例すぎる追放劇・優れた武将であった佐久間信盛と林秀貞〜」の話でした。

明智光秀と羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

地味な存在ながら超強力だった朝倉家

新歴史紀行
1569-72年頃の勢力図(歴史人 2020年11月号 学研)

1568年に美濃を制圧して、一気に「大大名の一角」に躍り出た織田家。

武田家・北条家・上杉家・毛利家・大友家などと並ぶ、天下有数の戦国大名となりました。

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次期足利将軍 足利義昭(義秋)(Wikipedia)

どこかの有力大名が、
私を奉じて京へ上ってくれんだろうか・・・

私は次期将軍になりうる
血統であり、大いなる大義名分にもなるんだが・・・

この頃、全国の有力大名に御教書を送り続けて、「将軍就任を画策」していた足利義昭。

今は京のすぐ近くの
越前の朝倉家におる・・・

朝倉は大大名であり、
京都っぽい雰囲気があるのが良いが・・・

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戦国大名 朝倉義景(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

義景は上洛する
意志はなさそうだ・・・

当時、石高が高く、日本海の船の物流の重要な港である三国湊・敦賀湊などを抑えていた朝倉家。

後に「愚か者の典型」のように描かれることが多い朝倉義景。

一方で、この戦乱の世の中で一向一揆と死闘を続け、一国を納め続けたのは相応の力量があります。

この少し後の1570年頃には、京周辺では、

戦国の世を納めるのは、
甲斐の武田、美濃の織田、越前朝倉のいずれか・・・

と「信玄か信長か」に続いて「朝倉義景か」と「声が上がった」という説もあります。

後に信長に一気に滅ぼされてしまったため、「弱小大名」のように感じられてしまう朝倉。

実際には、朝倉は「守護代上がり」であり、信長の織田家よりも血筋は上でした。

我が朝倉を
信長の織田家などと一緒にするな!

信長上洛後に、完全敵対した「浅井・朝倉コンビ」はやや地味ながら、超強力な存在でした。

織田家得意の「大規模付け城戦略」:抜群の経済力が成す軍略

戦国大名 浅井長政(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

織田信長の妹であり「天下一の美女」の誉れ高い「お市」を妻にした浅井長政。

お市は美しいし、
私は愛しているが・・・

簡単に約束を反故にする
信長は絶対信用ならん!

戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

そして、

一気に朝倉を
滅ぼして版図を広げるのだ!

と考えた信長の「腹背を襲って敗走」させた浅井長政。

信長を、もう少しで
討ち取れたのだが・・・

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元亀騒乱時における近江勢力図(戦国合戦大全上巻 歴史群像シリーズ 学研)

対浅井・朝倉戦の頃では、大国・近江で「織田vs浅井・朝倉」が、真っ向勝負しました。

そして、「浅井や元六角の勢力下だった」近江地元の小大名・国人たちへ、

我が織田家は将軍家を
奉じており、超強力だ・・・

今のうちに、我が織田家に
ついておいた方が、身の安全だと思うが・・・

もちろん、身分は守り、
莫大な恩賞を約束しよう・・・

織田家は秀吉が中心となり、猛烈な調略を続けて、少しずつ近江は織田色に染まってゆきました。

そして、敵の城の周囲に付け城を作る戦略を続けてきた織田家。

織田家が浅井氏を攻めたときも、小谷城周辺に付け城を築きました。

小谷城と
朝倉の間に城を築かれては・・・

朝倉との連絡すら
難儀ではないか・・・

そして、徐々に浅井の戦力低下をもたらしました。

この「付け城」戦略は、他家でも多く見られる戦略です。

ところが、織田家ほど大規模に実施するのは、それほど多くありません。

この「大々的に付け城を構築する」のは、織田家の大きな特徴の一つです。

それは「確実に相手を弱体化させる」合理的戦略で、信長が推進したのでしょう。

金は掛かっても構わんから、
付け城を作り、敵を弱体化させよ!

「付け城戦略」を織田家が推進した理由は、合理性を最重視する信長の性格以外に、理由があります。

それは、「付け城戦略」は、非常に時間とコストがかかることです。

時間も大事ですが、コストの負担も大きな問題です。

それを易々とできたのは、織田家の莫大な経済力が源泉でした。

我が織田は流通経済を
押さえ、莫大な現金収入がある!

「付け城戦略」を最も重視した明智光秀と羽柴秀吉

秀吉の鳥取城攻め(図説 豊臣秀吉 柴裕之編著 戎光祥出版)

後期織田家の秀吉が毛利攻めの時に行った、鳥取城攻めの包囲網。

この時は、「完全包囲」の付け城を構築しました。

このように大規模に行った事例は、後期織田家が圧倒的に多いのが特徴です。

付け城にしても、この大規模な包囲網にしても、「莫大な費用がかかる」のがデメリットでした。

そのため、武田・毛利・上杉などの大名は、「やりたくても出来なかった」のでしょう。

戦国大名 武田信玄(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

費用がかかりすぎるのは、
武田には出来ぬ。

非常に経済力が高い、織田家だからこそ出来た戦略でした。

もう一つの「付け城戦略」の問題は、「時間がかかりすぎる」ことでした。

戦国大名 上杉謙信(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

川中島では
武田と長年争ったが・・・

川中島で「想定外の長い時間」を戦い続けた武田と上杉。

川中島第N次の戦い
11553
21555
31557
41561
51564
川中島の戦い年表(新歴史紀行)

足掛け12年もの長い時間を「比較的小さな領土・川中島で争い続けた」武田と上杉。

合戦において、軍勢の死傷者数や費用も大問題ですが、期間もまた同様に重要です。

「勝ったとしても、制圧に時間がかかる」のは、どの大名も避けたいことでした。

「時間がかかる」ことは信長の「好まないこと」であり、そこは若き日々に美濃制圧に7年かけた信長。

敵国制圧が
進まぬくらいなら・・・

時間とコストが掛かろうと、
少しでも進んだほうが良いわ!

信長らしい、合理的発想だったのでしょう。

そして、後期織田家の得意技ともなった「大規模付け城」戦略。

大規模に付け城を作り、敵の籠城戦を戦います。

織田家重臣 羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

この戦略を好んで使用したのが、光秀と秀吉でした。

信長様から、
かなりの費用の差配を任されておる!

付け城構築には、
かなりの費用がかかるが・・・

私の財布から出すことは
可能なのだ!

「攻城戦が得意な秀吉」というイメージがありますが、光秀もまた攻城戦が得意でした。

織田家重臣 明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

そして、光秀の攻城戦もまた、「付け城戦略」による戦略が多かったのでした。

丹波攻撃では、
かなり大々的に付け城を作った・・・

時間も費用もかなり掛かるが、
最も効果的で確実な戦略だ・・・

この「付け城戦略重視」の姿勢は、柴田勝家や滝川一益達とは大きく異なる特色です。

この意味において、「光秀と秀吉の軍略の類似性」が大きい面もあったと考えます。

何かと「相反関係」にあるかのように語られることが多い「光秀と秀吉」。

二人の軍略や軍事思考には大いなる共通点があり、さらにライバル意識は強まったでしょう。

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