明智光秀と羽柴秀吉〜光秀と秀吉の軍略 1〜|戦国武将

前回は「明智光秀と羽柴秀吉〜光秀と秀吉の性格 2〜」の話でした。

明智 光秀と羽柴 秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

対朝倉・浅井戦の頃から、敵の城の周囲に付け城を作る戦略を続けてきた織田家。

織田家が近江・浅井氏を攻めたときも、小谷城周辺に付け城を築きました。

そして、徐々に浅井の戦力低下をもたらしました。

浅井 長政(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

この戦略他家でも多く見られる戦略ですが、これほど大規模に実施するのは、多くありません。

織田家の大きな特徴の一つです。

それは、「確実に相手を弱体化させる」合理的戦略で、信長が推進したのでしょう。

織田 信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

「付け城戦略」を織田家が推進した理由は、合理性を最重視する信長の性格以外に、理由があります。

それは、「付け城戦略」は、非常に時間とコストがかかることです。

時間も大事ですが、コストの負担も大きな問題です。

それを易々とできたのは、織田家の莫大な経済力が源泉でした。

秀吉の鳥取城攻め(図説 豊臣秀吉 柴裕之編著 戎光祥出版)

後期織田家の秀吉が毛利攻めの時に行った、鳥取城攻めの方位網の図です。

上図のような大規模に行った事例は、後期織田家が圧倒的に多い。

付け城にしても、この大規模な包囲網にしても、「莫大な費用がかかる」のがデメリットでした。

そのため、武田・毛利・上杉などの大名は、「やりたくても出来なかった」のです。

武田 晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

非常に経済力が高い、織田家だからこそ出来た戦略でした。

問題は「時間がかかりすぎる」ことでした。

上杉 謙信(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

費用がかかりすぎるのは、
武田には出来ぬ。

それは信長の「好まないこと」でしたが、そこは若き日々に美濃制圧に7年かけた信長。

敵国制圧が進まぬくらいなら・・・

時間とコストが掛かろうと、
少しでも進んだほうが良いわ!

信長らしい、合理的発想だったのでしょう。

そして、後期織田家の得意技ともなった「付け城」戦略。

大規模に付け城を作り、敵の籠城戦を戦います。

この戦略を好んで使用したのが、光秀と秀吉でした。

羽柴 秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

「攻城戦が得意な秀吉」というイメージがありますが、光秀もまた「付け城戦略」による攻城戦が得意でした。

明智 光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

これは、柴田勝家や滝川一益らと大きく異なる特色です。

この意味において、「光秀と秀吉の軍略の類似性」が大きい面もあったのでした。

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