前回は「土佐の海から世界へ〜桂浜と坂本龍馬・「竜馬がゆく」と司馬遼太郎の思い・海から日本を変革する強き意志・薩長同盟の立役者の真実〜」の話でした。
広く太平洋に視線が広がっていた土佐と薩摩
幕末まで土佐と呼ばれた高知県の桂浜からは、雄大な太平洋が見渡せます。
スーッと水平線が見える様子は、「世界を感じる」刺激を土佐若者たちに与えたでしょう。
幕末までは京・山城が国家の中心・重臣であった日本の国家像。
「島国・日本」は、どこかの部分が海に接する国がほとんどでした。
「全く海と接しない」国は、美濃・信濃・甲斐・上野・下野・丹波・美作など少数派でした。
「海に面する」と言っても、その海が日本海か瀬戸内海か東シナ海か太平洋かは全く異なります。
数ある国々の中でも、「広い太平洋に思い切り開けていた」のが土佐と薩摩でした。
薩摩と土佐から幕末に多数の人物を輩出した理由。
それは、雄藩であった事が大きいですが、「太平洋にひらけていた」ことも大きな理由でしょう。
海から世界を見つめた坂本龍馬と桂浜
幕末に獅子奮迅の活躍をした海援隊の坂本龍馬と陸援隊の中岡慎太郎。
この二人は、「維新前夜に一緒に暗殺されてしまう」運命にありました。
「竜馬がゆく」で坂本龍馬を「描き切った」司馬遼太郎。
「竜馬がゆく」は誤った事実が
多すぎる・・・
司馬遼太郎得意の
「でっち上げ」が多いのが「竜馬がゆく」・・・
こういう声もあり、確かに「龍馬を美化しすぎ」の点がありますが、青少年少女から大人までワクワクします。
「犬猿の仲」を超えて「不倶戴天の敵」同士であった薩摩と長州の手を結ぶ「大事な役」を果たした龍馬。
「竜馬がゆく」の圧巻は、竜馬(龍馬)が「維新政府に高官として入るかどうか」の話の際の竜馬の言葉です。
お役所勤めは
私には性に合わなくて・・・
世界の海援隊でも、
やりますかな・・・
こう竜馬が受け応えます。
これは、誰が聞いても「カッコいい」のです。
維新の風雲を駆け抜け、大政奉還が行われた直後、龍馬は暗殺されてしまいます。
海を駆け抜けた「竜馬」ならぬ坂本龍馬の人生は、痛快極まりない快男児です。
幕末維新の人物たちの中でも「群を抜いた人気」を持つ源泉は、この「カッコよさ」でしょう。
内向きの「佐幕」派と外向きの「倒幕・討幕」派:徳川と江戸の求心力
薩長土肥と言われる、幕末の主人公たちは全て海に面する藩でした。
中でも薩摩と土佐の二藩は、とても似た面があります。
それは、「薩摩も土佐も太平洋に面していて、昔から交易が盛んであった」ことです。
「海に面する」藩は、江戸時代であれば御三家の紀伊藩・尾張藩など沢山の藩も該当します。
ところが、彼ら佐幕の藩や人間が、「徳川家=江戸」を常に意識せざるを得ず、どうしても内向きになります。
当時、「徳川幕府の屋台骨は揺らいでいた」と言われますが、なんと言っても日本政府であった徳川。
各藩、特に佐幕藩はどうしても、
徳川将軍家は
何を考えているのか・・・
江戸の徳川の
意向はなにか・・・
徳川幕府と江戸の猛烈な求心力ゆえに、その思考もまた「徳川・江戸中心」となりがちでした。
佐幕ではない土佐や薩摩は、己の立ち位置を考えざるを得ませんでした。
そして、そのことはまた、海へ、世界への視線に繋がったと考えます。(上記リンク)
誰でも生まれ育った国や場所の影響は、非常に大きいです。
坂本龍馬も土佐藩ではなく、例えば日本海に面した越前藩に生まれていたら。
龍馬の人生は、だいぶ違った人生になっていたことは間違いないでしょう。
「太平洋から、海の彼方の外国を意識すること」は、当時なにものにも替え難い経験でした。
その経験は、土佐・薩摩・長州など多くの人にもたらしたことでしょう。
海は世界をつなげ、船があれば、世界へ行けます。
今は飛行機でひとっ飛びすることが多いですが、日本国内でも船で往来することは、面白いです。
遊覧船もいいですが、やはり「船で島と島の間を移動する」ことをやってみるのは、とても貴重な経験です。
土佐の桂浜、ぜひ訪れてみてください。
次回は上記リンクです。