前回は「薩摩の国〜討幕の原動力となった強き国・薩摩の雰囲気香る鹿児島の街・「飛ぶが如く」と「竜馬がゆく」と「坂の上の雲」の舞台〜」の話でした。
薩摩の街の銅像たち
とにかく「銅像が多い」鹿児島の町。
誰でも知っているような方が、これほど大勢、そして小さな領域に銅像が建っているのは珍しいでしょう。
とにかく、戦国期以降の日本の歴史において「非常に特異な」存在感を放ち続けた薩摩。
日本中に圧倒的パワーと「不気味な存在感」をもたらし続けた薩摩。
日本本土で考えると「日本の端」に位置した薩摩藩は、「日本の端」ではなく「世界と日本をつなぐ国」でした。
西郷・大久保たちが見た海:海外とのつながり
この海の向こうに、
我らと異なる国々がある・・・
エゲレス(英国)や
メリケン(米国)の国々が・・・
薩摩の海には、有名な桜島があります。
沖縄などの島を除くと、日本の最南端に位置してきた薩摩。
沖縄は戦国期を通じて「琉球」という別の国で、島津家が間接支配していました。
そうはいっても、清国にも属しており、いわば「両属」だった琉球。
日本列島だけをみると、「端っこ」にありますが、世界地図で見ると、まさしく「世界とつながっている」のです。
そして、戦国時代には、多くの大名がキリスト教をはじめとした南蛮文化に触れたのでした。
「南蛮」と言うと、積極的に南蛮人・イエズス会を保護した織田信長が頭に浮かびます。
南蛮の最新兵器や
技術には大いに興味がある・・・
イエズス会の連中を保護し、
南蛮とつながりを持つのが得策だ!
実際には、南蛮側から見て「日本の玄関」だった九州の諸大名たち。
中でも強大な大友・龍造寺・島津は、南蛮と積極的に接しました。
九州の海と世界:海と薩摩の非常に近い関係
織田信長・大友宗麟などの一部の大名だけではなく、当時は多くの大名が「海の向こうの世界」を知ったのでした。
日本海に面する加賀や越後などの国々は、
外国といえば、
まずは中国と朝鮮!
長らく交流のあった中国や朝鮮などの国との関係や影響が大きかったでしょう。
九州では、大友家をはじめとして、南蛮との交流にかなり積極的でした。
南蛮と接することは、
大いなる利益につながる。
貿易すれば、
莫大な収益が生まれる。
そして、
海外の最新兵器も手に入る!
薩摩・島津家もまた、「交易による莫大な利益」に目をつけました。
中国大陸や南蛮との交易は、
積極的に!
特に中国大陸との結びつきは、
どんどん深めたい!
そして、南蛮との交流は積極的に行ったのでした。
薩摩からは広い外界が見えて、ここから世界を常に意識していたと思います。
大友家の本拠地・豊後、龍造寺家の本拠地・肥前も、島津家の本拠地・薩摩と同じように「海に囲まれた国」です。
そして、薩摩国が他の九州諸国と異なった点の一つが、錦江湾という大きな湾を持っていたことでした。
そしてのその錦江湾の向こうは桜島があり、戦国時代は、桜島と九州本土が地続きでした。
そのため、
海の向こうも、我が
薩摩の土地・領土だ!
非常に「特異な状況」にあったのが薩摩・大隅でした。
このことが、薩摩の人々が「海と非常に近い感覚」を持つに至りました。
つまり、「海と薩摩は非常に近い関係」にあったのでした。
そして、薩摩隼人たちが、猛然と「海に向かっていった」大きな原動力となったと考えます。
次回は上記リンクです。