前回は「西南戦争の爪痕〜威風堂々とした薩摩藩士・維新の元勲の銅像・島津氏の鹿児島城・鶴丸城:徳川に真っ向勝負した島津義弘・西南戦争の爪痕・多数の銃弾痕と戦争の現実〜」の話でした。
維新の嵐から西南戦争への道:「維新の四傑」の死と薩摩
幕末維新から明治にかけて、猛烈な存在感を発揮した薩摩藩出身の人物たち。
「維新の三傑」の三人のうち二人が薩摩藩出身の西郷隆盛と大久保利通です。
残りの一人が長州藩出身の木戸孝允であり、これは「薩摩と長州の力関係」も示しているでしょう。
「維新の三傑」以外に「維新の十傑」という考え方もあります。
個人的には、上の四名が「維新の四傑」と考えます。
これらの人物たちが次々に亡くなっていった1877年〜1883年。
死没年 | 名前 | 死の原因 | |
1877 | 木戸孝允 | 病死 | |
1877 | 西郷隆盛 | 自刃 | |
1878 | 大久保利通 | 暗殺 | |
1883 | 岩倉具視 | 病死 |
木戸・岩倉の病死に対して、西郷と大久保の自刃と暗殺。
この亡くなった理由こそが、薩摩藩士らしいとも言えます。
維新を主導した主要メンバーの一人であり、小さい頃から「同志を超えた存在」だった西郷と大久保。
この二人のことを描いた小説などは多数出ており、歴史上極めて強い関心を呼んでいます。
この「維新の四傑」が亡くなった後は、伊藤博文・山縣有朋などの長州閥が中心になりました。
ところが、その後も軍においては薩摩の影響が強かったのが現実です。
日露戦争の満州軍総司令官・大山巌、連合艦隊司令長官・東郷平八郎でした。
やはり、「軍は薩摩」という印象が、少なくとも戦前までは強かったのでしょう。
西南戦争の銃痕
鹿児島市内を散歩すると、「西南戦争の爪痕」が感じられます。
西南戦争の際の、銃弾跡・銃痕が残る塀。
こういう塀が残されていることもまた、薩摩らしさを感じます。
一蔵どん!
なぜ、こういうことになったのだ!
「政府に尋問の儀あり」という中途半端な名目で挙兵した西郷軍。
西郷先生が
立ち上がったぞ!
当時、最も人気が高く、影響力が甚大だった西郷の元には、大勢の将兵が集いました。
一時は3万名を超えた西郷軍は、谷干城率いる熊本鎮台・熊本城で食い止められてしまいました。
西郷軍を
撃退せよ!
鶴丸城の石垣の残っている銃弾の戦いの頃は、西郷軍が追い詰められている頃です。
この銃痕は「西郷軍が押されて、一方的戦いになりつつあった」のが感じられます。
そして、追い詰められて城山で自刃した西郷。
・・・・・
血塗られた歴史の痕跡を体験すること
太平洋戦争(大東亜戦争)の解釈の事もあり、戦争などの血塗られた歴史の痕跡は、日本国内にはあまり多くないです。
小学校〜高校の歴史の授業では、戊辰戦争にしても西南戦争にしても、
外国からの接触が増えて、
徳川幕府から明治維新政府に変わりました・・・
割合あっさりと教えられている感じがします。
白虎隊の悲劇などは多少触れるものの、
明治維新は
「比較的流血が少ない平和革命」です!
と言われています。
ウクライナ戦争が勃発し、報道以外に、身近に戦争を感じられる機会がほとんどない、平和な国の日本。
「平和」はとても良い事ですが、文字通り銃弾やミサイルが飛び交っている場所がある現実もあります。
戊辰戦争よりも西南戦争は遥かに大規模で、日本最大の内戦でした。
この少し前には、当時世界最大の大英帝国を相手取って、薩摩は戦います。
西南戦争は大変な規模の、猛烈な戦いであったのです。
一時は「維新の顔」であった西郷隆盛。
「明治維新政府の顔」であり、一時は内閣総理大臣格だった西郷。
地租改正を
推し進めるごわす!
そのパワーを全開して、次々と偉業を成し遂げました。
ところが、
今は朝鮮のことよりも、
内治優先だ!
とにかく、揉め続けた明治維新政府。
様々な個性的な人物たちが火花を散らし続けて、争い続けました。
ここで、「征韓論」という「朝鮮に対する姿勢」が大きな契機となり明治六年の政変に至りました。
なぜ、一度閣議で
決定したことがひっくり返るのだ!
ワシの目が黒いうちは、
こんなことやらせんわ!
なにっ!
ふんっ!
西郷は、大久保利通や岩倉具視との政争に敗北しました。
・・・・・
そして、下野して四年ほど熊本で「私学校」という軍事組織を運営し続けた西郷。
この頃の西郷の真意は不明ですが、
この間違った新政府は
正さねばならん・・・
と考えていたことは間違いないでしょう。
大久保は、西郷先生を
暗殺しようとしました!
最後に、西郷は部下達に担ぎ出されるようになり、
おいどんの身は
おはんらに預けもそ・・・
西南戦争に至りました。
血塗られた歴史を実感できる、この場所。
ぜひ、足を運んで頂きたいと思います。
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