前回は「西南戦争の爪痕 2」の話でした。

薩摩藩にとって、長年の仇敵のような存在であった熊本城。
関ヶ原の戦いで、徳川に楯突いた島津家は、一時は取り潰しの対象となりました。

ところが、明国との貿易船を鎮めるなどして、徳川幕府を脅した島津家。

島津を敵に回したら、
大変なことになりますよ。





取り潰してやりたいが・・・



島津は強い・・・



しかも、薩摩は遠い・・・



やむを得ない・・・
しぶしぶ、家康は島津家を許します。
「全くの減封なし」という、異例の対処でした。


その後、肥後に拠点を持つ加藤清正が、「対島津」の拠点・熊本城を気づきます。



いざ、豊臣と徳川が戦ったら・・・



秀頼様を熊本城に
迎えよう。
明治政府によって「熊本鎮台」が置かれた熊本城。
西郷軍が熊本城を目指したのは、当時の歴史背景を考えると当然でした。





おいどんが行けば、
熊本城は開城して味方につく。
西郷は、こんな観測すら持っていたと伝わります。
熊本城では、旧土佐藩士の谷干城が踏ん張り、当時まだ若かった児玉源太郎も参謀の立場で戦いました。


結局、西郷軍は熊本城を落とすことは出来ず、緒戦の戦いから終始、物量豊かな政府軍に押され続けました。



西郷さんは、
昔同志だったが・・・



今は、敵と味方!
当時の国内では比類ない猛烈に勇敢な薩摩軍に対して、政府軍はかなり手を焼いたのです。
白兵戦では最強の薩摩兵に対して、剣術の力量に優れた戊辰戦争で恨みが積もっている旧会津藩の藩士。
会津藩士は、政府軍によって組織化されて、この西南戦争で「戊辰の恨み」とばかりに戦ったのです。


そんな熾烈な歴史、血塗られた歴史を感じられる史跡です。
アクセスもとても良いので、ぜひ訪れてみてください。

