前回は「城山から〜西南戦争と西郷〜」の話でした。

西南戦争の傷跡から少し歴史が流れて、太平洋戦争です。
鹿児島県の南部にある知覧には特攻平和会館がありますので、ぜひ訪れてみたいと思っていました。
太平洋戦争末期、知覧には陸軍の特攻基地があり、近くの鹿屋には海軍の特攻基地がありました。

「特攻の創始者」と言われる大西瀧治郎。
海軍切っての航空派であり、真珠湾奇襲攻撃前の日中戦争の頃から航空隊を指揮していました。


ハワイを航空隊で
奇襲攻撃したい。



航空隊で、
真珠湾を・・・



具体的な作戦を
検討してもらいたい。



かなり難しい
ですが・・・



検討いたします。
山本長官の信任もあつく、「海軍の航空隊といえば大西」と言われるほどの存在でした。
その大西が、日本の敗色が濃厚となった頃に「特攻隊を具現化した」と言われています。
海軍のフィリピン・レイテ沖海戦の際に初めて出動した神風特別攻撃隊。
1944年10月のことでした。
陸海軍の特攻隊が出撃してから、日本が降伏するまでは10ヶ月余り。
多数の若者が散華しました。


神風特別攻撃隊は「かみかぜとくべつこうげきたい」と呼ばれます。
しかし、もともとは「かみかぜ」ではなく「しんぷう」と呼んだと言われています。
この作戦を起案した一人である源田実。
真珠湾奇襲攻撃からミッドウェー海戦に至るまで第一航空参謀として、第一航空艦隊の柱となりました。
特攻開始時には軍令部におり、航空参謀であった源田。
戦後には源田は「特攻との関わりをあまり語らなかった」ため、「大西が主体」となっています。


知覧の陸軍基地の特攻隊の指揮を取ったのは、陸軍の菅原道大 第六航空軍司令官でした。
九州の知覧(陸軍)、鹿屋(海軍)などの基地から多数出撃した特攻隊。
陸軍と海軍でそれぞれ管轄も所属する将兵も異なりますが、同じ「神風特別攻撃隊」を出撃させる立場です。
そのため、「陸軍と海軍共同作戦なので、指揮系統は統一化」という方針の元、陸軍は海軍の指揮を受けることになります。
菅原道大 第六航空軍司令官は海軍の連合艦隊司令長官・豊田副武大将の指揮を受けることになりました。
そして、海軍側の特攻隊を指揮する第五航空艦隊司令長官は宇垣纏でした。


真珠湾奇襲攻撃の時に連合艦隊司令長官だった宇垣纏。
日本が敗戦を迎えた1945年2月に、第五航空艦隊司令長官となります。
元々「大艦巨砲主義の権化」と言われた宇垣。
連合艦隊参謀長、第一戦隊司令官などを経て、「航空戦の重要性」を見にしみて感じることになります。
そして、宇垣は大西と同じ海兵40期です。
のちに敗戦(終戦)の日に、部下を引き連れて「長官特攻」を敢行した宇垣。
長官特攻は賛否両論あり、これに関しては改めてご紹介します。
様々な歴史が込められた知覧基地・特攻平和会館です。