前回は「軍人勅諭を礼賛した草鹿龍之介〜半月一月で海軍軍人基礎作る海兵教育・穏やかな人物が多い「華の海兵39期」・交互の「強面組」と「穏やか組」〜」の話でした。

超特急海軍将校育成機関・海軍兵学校:「鉄拳の嵐」と軍人の基礎

とにかく「鉄拳づくめ」であった海軍兵学校での生活。
現代の普通の学校で教育を受けてきた、私たちには「ちょっと想像がつかない世界」です。
草鹿龍之介それかと言って惰容を示せば、
鉄拳である。
少し「だれた雰囲気」を出そうものなら、「即鉄拳」となります。
これでは一日中緊張していなければならない生活であり、精神的にかなり辛い学生生活でした。



然し、これあるが為、半月一月の後には先ず、
しゃんとした海軍軍人の基礎が出来上がり・・・



見違えるような
男になる。
ここで、注目は「鉄拳教育」の結果、「半月か一月で海軍軍人の基礎」が出来上がることです。
とにかく、戦争において海軍を指揮する将校を「3~4年間で育てる」超特急教育であった海兵の教育。
海兵を卒業する瞬間に、卒業生は「少尉候補生」となり、「少尉の一歩手前」となります。
| 職位 | 立場 |
| 将官 | 大将・中将・少将 |
| 佐官 | 大佐・中佐・少佐 |
| 尉官 | 大尉・中尉・少尉 |
将官・佐官・尉官の中で、少尉は一番下ですが、軍隊の中では純然たるエリート指揮官でした。
現在、自衛隊では、「大佐・中佐・少佐」の代わりに「一佐・二佐・三佐」と呼びます。
これは、「戦前の軍隊と区別するため」と考えますが、筆者は分かりにくいと考えます。
日本では剣道などで、「数字が上の方が、格が上」という考え方もあります。、
その為、「一・二・三」は、「一と三のどちらが上か」が、パッと分からない点があります。
戦前の少尉は、陸海軍いずれにおいても、「下士官とは別格」の存在でした。
下士官から少尉になるのは、極めて少数であり、長い時間がかかりました。
さらに、帝国海軍では「海兵卒業の少尉」と区別するために「特務少尉」が設置された時代もありました。
「鉄拳、鉄拳」の海兵教育は、「軍人の超早期育成機関」としては、良い面もあったのでした。
後輩への鉄拳制裁に「暗い顔」した伊藤整一:「大和特攻」の草鹿と伊藤





起床から就寝まで、
全て号令で規制される。



寸分も
隙がない。



この中にも
楽しい時がある。



食後の
三十分である。



どこに行っても同郷の者は
相集まる。



私は石川県人の
グループに入った。



赤煉瓦生徒館横の
道が、私たちの散歩道であった。
「寸分も隙がない」息が詰まるような生活の中、夕食後は「楽しいひと時」がありました。
たった三十分でしたが、とにかく「良い息抜き」になったのでしょう。



この散歩の時ばかりは、
上級生も裃を脱ぎ・・・



故郷の話に花を咲かせるので
あった。



やがて温習時間ともなれば、各自の分体に帰り、
また温習が始まる。



学科の
予習復習である。



雑話は厳禁で、その上姿勢が悪いと後ろに座っている
三学年生徒から叱られる。



温習の
終わり頃、



草鹿、
一寸来い!



山県伍長が
私を呼びつけた。



貴様は今朝靴を磨く時、待っているものがいるのに、
後から来て先に靴を磨いたろう。



いけない、
制裁してやる!



足を開け、
歯を食いしばれ!



ポカンポカンと
二つやられた。
「靴を磨く順番」にまで目を光らせていた上級生たち。
いわば「全てが上級生の監視下」にあった学生生活でした。
そして、少しでも「規則からズレる」と「即鉄拳」でありました。



他の分隊の三学年に見つけられ、
その分隊に呼ばれるところであったが・・・



気配を覚って、山県伍長が
先手を打ち、二つで処分済みにしてくれた。



いずれ他分隊に行けば、
少なくとも四つ五つやられるところであった。
「鉄拳制裁」を行った草鹿所属の山県伍長は、実は「他の分隊より軽い措置」で済ませるための「温情」でした。



その件は、
すでに処分済み、にしよう・・・
「四つ五つやられるところ」を「二つ」で「処分済み」 とした山県正郷伍長。
こうした、きつすぎる「鉄拳人生」の中にも、若者たちの様々なドラマがあった海軍兵学校。
戦後に草鹿龍之介自身が書いた回想録である「一海軍士官の半生記」。
実に、実に細かな点まで記憶し、学生生活を描写しています。



他分隊から呼びにきた時、
山県伍長は、



既に当分隊で
制裁済!



と言って
断った。
とにかく、写真の通り、「後輩思い」であった山県正郷でした。



伊藤整一伍長補は、一学年が
殴られると暗き顔をする。



何かにつけて
下級生をかばう。



・・・・・
写真の通り、若い頃から温厚なジェントルマンであった伊藤整一。



この良き先輩である伊藤整一中将が、
行きて帰らぬ戦艦大和部隊の長官として・・・



いよいよ出撃するに際し、
私が連合艦隊参謀長たる位置により・・・



最後の決別の辞を伝えにいかなくてはならぬ
羽目になったということは・・・



誠に皮肉な巡り合わせで
あった・・・


1945年4月7日、戦艦大和は「海上特攻」部隊として、沖縄に進出しました。
草鹿の回想によると、



一億総特攻の
先駆けとなって頂きたい・・・



・・・・・



それならば
承知した・・・
伊藤整一・第二艦隊司令長官は、「絶対に撃沈され、戦死」となる海上特攻に向かい、戦死しました。
「大和・海上特攻」に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
このことを、草鹿龍之介は「一海軍士官の半生記」で、「皮肉な巡り合わせ」と語っています。
おそらく、似たような「皮肉な巡り合わせ」は、当時の帝国海軍にて無数にあったと考えます。
とにかく濃厚な上下関係があったのが、海軍兵学校の分隊生活でした。


