前回は「戦国時代と江戸時代の風情がない現代大阪城〜「見せ方」に全く配慮していない幟・エスタブリッシュした豊臣秀吉とエネルギッシュな羽柴秀吉〜」の話でした。
織田信長が考えていた大坂の未来

現在の大阪城(大坂城)公園は、秀吉の頃の大坂城のエリアよりも大分縮小された状況です。
かつては「大坂」と呼ばれていたのが、現在の「大阪」です。
往時の大坂城の雰囲気は、あまり感じられません。
「大坂城が、当時このあたりにあった」ことは事実です。
秀吉が大坂城を拠点としたのは、元々は織田信長の着想と言われています。


大坂は海に
面している!



日本一の貿易の地である
堺がすぐ近くで・・・



京都にも
近い!


元々「尾張守護代の織田家の三家老の一つ」に過ぎなかった、「信長の織田家」。
織田信秀の時代に、急速に勢力を拡大しました。
その勢力拡大の力の源泉の一つが、津島などの湊の運上金でした。



海を支配すれば、
儲かる!



さらに、海外へも
近くなる!
信長の最初の拠点である清洲城以降、小牧山城、岐阜城、安土城と内陸側を拠点としてきた信長。



最後には、
海に面した地を拠点とする!
このように「本拠地を移転し続けた」ことは、実に信長らしいことです。
秀吉が「信長の構想」を継承して完成した大坂城


秀吉は「その考えを継承した」とされています。



信長様の遺志を継いで、
大坂へ!
石山本願寺の立地条件に目をつけて、そこに巨大な城を築く構想を安土城築城の頃から持っていたと言われる信長。



あの大坂に築く
新しい城は・・・



水城が
良さそうだ・・・


信長は、光秀の坂本城を参考にしたかもしれません。
あるいは本能寺の変が勃発しなかったら、光秀が「信長の大坂城」の奉行となったかもしれません。
石山本願寺を陥落させ、引き渡しさせた際、なんらかの原因で出火しました。


そして、ほとんどが炎上してしまったことで、担当であった重臣の佐久間信盛にきつく叱責したと言われます。



お前は
馬鹿か!



申し訳
ございません・・・
信長が「その後築城する」つもりであったら、寺内町等が焼けてもそれほど問題なかったようにも思えます。
これは大いなる謎であり、信長の一向宗に対する憎しみを考えても整合性が小さいと考えます。
合理的な精神の信長ですが、「心の底から憎悪していた」一向宗が使用していた城等を「そのまま使う」かどうか。



一向宗の連中が
使用していた建物など、使えるか!



そんなもの、全て
焼き払ってしまえ!



余が欲しかったのは
大坂の地であり、建物はいらない!



余が「余の世界観」で
新たな建物を作ってみせるわ!
信長ならば、このくらいの方がピッタリです。
この「大坂本願寺焼失」は、佐久間信盛追放の原因の一つとして、後世の創作かもしれません。
日本の中心・重心であり続けた京と大坂


大阪(大坂)城の立地は、大坂湾が遠く望め、日本列島のほぼ中心に位置します。
いわば、「日本の重心」のような立地です。
もし、本能寺の変が発生せず、織田信長政権が誕生し、ある程度の治世があった「ifの歴史」が誕生していたら。
大阪(大坂)が、日本の首都になっていたかもしれません。
あるいは本能寺の変が発生後、豊臣政権誕生し、秀吉が若い時に子供が誕生していていたら。
その子がうまく豊臣政権を継承し、家康の付け入る隙がなかったならば。
やはり、大阪(大坂)が日本の首都になっていたかもしれません。


いずれにしても、現在私たちが「当然と考えている」東京が首都であること。
それは、戦国時代から見ると異常事態かもしれません。
本能寺の変前後、当時の江戸(東京)が全くの田舎であったことから「全く考えられない」ことです。
やはり歴史好きな人間にとっては現地に行ってみて、その空気や地理を感じながら、



ひょっと
したら・・・
こんなことを考えることは、とても楽しいことです。
そして、歴史に対する別な視点が生まれる機会になると思います。
大阪(大坂)の地理を体で体験するために、ぜひ大阪(大坂)城へ。
次回は上記リンクです。