前回は「天皇と朝廷を掌握した織田信長〜「長篠」後も猛烈に暴れ回った武田・京と及び周辺を完全に押さえた織田家・武田家の「朝敵」指定〜|本能寺の変20・理由・エピソード・戦国時代の終焉」の話でした。
日本の中枢と天皇を押さえた「圧倒的存在」の織田家
本能寺の変当時の織田家の立場は、盤石となりつつありました。
当時の日本の中枢部をほぼ完全に掌握し、圧倒的な軍事力と経済力を有していた織田家。
日本の歴史において、「軍事力は皆無だが、極めて強い謎の政治権力」を持っていた天皇。
この「極めて強い謎の政治権力」の象徴である正親町天皇も、織田家が押さえる状況になりました。
私は天皇であり、
絶対的存在であるはずだが・・・
信長はそれを
認めようとはしない・・・
越後の上杉家は、柴田勝家の北陸方面軍で押しに押していました。
上杉を叩き潰すのは、
もう一歩!
私は織田家の「武の象徴」である
柴田勝家なのだ!
しかも、越後の南には、武田領だった信濃北部に猛将 森可成がいました。
俺も越後に
攻め込むぜ!
柴田と森は、古くからの「尾張譜代の仲」であり、非常に良好な関係でした。
この頃、柴田勝家と森可成がまとめて乗り込んだら、大変な軍事力となる存在でした。
これは、
非常にまずい状況だ・・・
柴田勝家・佐々成政らの柴田北陸方面軍だけでも、負けそうです。
さらに、信濃からも攻められたら、上杉は「一巻の終わり」となるのは確実でした。
もはや、
もはや・・・
我が上杉家は
終わりか・・・
越後守護代から関東管領にまで上り詰めた上杉家。
上記リンクでは、関東管領後に超強力な力を持った上杉謙信を描いています。
関東の覇者であった北条氏政もまた、
もはや、
織田には勝てまい・・・
北条家は、織田殿に
従います。
関東の大大名・北条家は織田家に従属的立場となり、武田攻めにも加わりました。
本能寺の変で「息を吹き返す」ことになった北条家の話は、上記リンクでご紹介しています。
東北の伊達家は友好関係で従属へ、そして、中国地方ではまさに秀吉が毛利と戦っていました。
残るは四国・九州でした。
四国の長宗我部に関しては、石谷家と斎藤利三・明智家の関係が原因の一つとされています。
上記リンクでは、長宗我部・石谷家・斎藤家・明智家に関する話をご紹介しています。
信長が派遣する予定の四国方面軍は、三男信孝を主将、丹羽長秀が副将でした。
さらに、四国に根強い勢力を持つ「一時は天下人であった」三好一門の三好康長が織田方でした。
このことから、長宗我部も大きな時間かからない見込みだったでしょう。
天下統一後の信長の国家像「織田家のかたち」:織田家と九州・四国
我が長宗我部は、
織田殿と戦いたくはないのだが・・・
「先を読んでいた」長宗我部元親は、早い時期から信長に誼を通じていました。
そして、長男は信長から偏諱を受け「信親」と名乗っていたのです。
約束を保護にしたのは、
信長殿だ・・・
「四国は切り取り次第」と元親と約束した信長でしたが、
三好もいるから、長宗我部は土佐と
阿波の一部でどうだ?
それはちょっと・・・
そんな・・・
約束を一方的に保護にしたのは、信長の方でした。
本能寺の変当時、九州は、島津家が猛烈な勢いを持ちつつありました。
島津は、織田家と全面衝突はしない可能性が高かったでしょう。
本能寺の変当時は、まだ龍造寺も健在でした。
仮に島津と一線交えることになっても、信長には明確な「九州侵攻のイメージ」がありました。
九州名族の惟任と惟住の名前を、明智光秀と丹羽長秀それぞれに与えていました。
そのため、惟任・明智光秀が主将で、惟住・丹羽長秀が補佐となるのが明確でした。
そして、織田家は九州へ攻め込む予定だったでしょう。
中国地方では羽柴秀吉が、毛利家内部の調略を進めて、毛利家の内部からの崩壊を狙っていました。
数の上では、毛利は
強大であるが・・・
既に多数の有力な国人たちが、
寝返りを約束しておるわ!
場合によっては武田家同様、朝廷を動かして島津家を朝敵とすれば、大きな時間がかかるとは思えません。
順調にゆけば、
あと1〜2年で天下統一だ!
と、織田信長は考えていたでしょう。
そして、
天下統一後の、織田家が
「日本の国家」と等しい存在となる。
諸将をどのように
配置するか?
この「織田家のかたち」を信長は考え続けていました。