前回は「「信長の命令で家康殺害」と考えた明智軍〜本城惣右衛門覚書と根拠・光秀「信長様に立派な軍勢を見せる」・堂々と備中ではなく都へ〜」の話でした。
「直ちに御殿に放火した」信長:平穏な京での突然の銃声と大火災

満を持して、織田信長・信忠父子殺害に向かった明智光秀。

「本能寺」を語る書籍は、江戸期から現代に至るまで無数にあります。
当時、「西洋の視点」から日本を冷静に、時に感情を込めて記録に残したルイス・フロイス「日本史」。
Froisまもなく銃声が響き、火が我らの
修道院から臨まれた。



次の使者が来て、あれは
喧嘩ではなく、



明智が信長の敵となり、
反逆者となって、



彼を包囲したのだ、と
言った。
最初は「何らかの騒動」と考えた、京都の民衆やキリシタンたち。
やがて、「銃声が聞こえ、火が見える」異常事態に、光秀叛逆の事実を知りました。



明智の軍勢は御殿の門に
到着すると、



真っ先に警護に当たっていた
守衛を殺した。



内部では、このような叛逆を
疑う気配はなく、



御殿には宿泊していた
若い武士たちと、



奉仕する茶坊主と女たち以外には、
誰もいなかったので、



兵士たちに
抵抗する者はいなかった。



そして、この件で、特別な任務を
帯びた者が、兵士と共に内部に入り、



ちょうど手と顔を洗い終え、
手拭で身体を拭いている信長を見つけたので、



直ちにその背中に
矢を放ったところ、





むっ!!!!!



信長は、その矢を
引き抜き、



鎌のような形をした長槍である
長刀(ナギナタ)という武器を手にして出て来た。



そして、しばらく戦ったが、
胸に銃弾を受けると、



自らの部屋に入り、
戸を閉じ、そこで切腹したと言われ、



また、他の者は、彼は直ちに御殿に放火し、
生きながら焼死した、と言った。
「手と顔を洗っていた時に、明智兵から矢を受けた」説は有名で、ドラマなどでも描かれています。
おそらく、フロイスは、落ち延びた女性たちが信長を見ていた証言、と考えます。
「毛髪も骨も全てが灰燼に帰した」信長:猛火に包まれた本能寺の謎


ここで、フロイスは、



また、他の者は、彼は直ちに御殿に放火し、
生きながら焼死した、と言った。
このように述べ、本能寺放火は「信長の命令で小姓が火を放った」ように記載しています。





すでに御殿は火をかけられ、
近くまで燃えてきた。
対して、信長公記では、このように「御殿は火をかけられ」と明智軍放火のように記載しています。
信長公記の「本能寺火災」に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
日本語の特徴である「主語がない」ため、信長公記の記載は曖昧な点があります。
この「本能寺の火災原因」は、極めて重要な事実であり、フロイスの記載が正しいと考えます。



余の遺体を
明智めに晒すな!



本能寺を
燃やすのだ!
この辺りも、ドラマなどで描かれる点ですが、信長はむしろ冷静に、



直ちに、火薬を用意して、
火を放つのだ・・・
このように命令した、と筆者は考えます。



だが、火事が大きかったので、
どのようにして彼が死んだかは、判っていない。



我らが知っていることは、その声だけでなく、
その名だけで、万人を戦慄せしめていた人間が、



毛髪といわず、骨といわず灰燼に帰さざる
ものは一つもなくなり、



彼のものとしては地上になんら
残存しなかったことである。
ここで、フロイスは、かなり詩的に「信長の最後」を語りました。
「毛髪も骨も、何もかもが消滅してしまった」信長の存在。
多数の謀反や叛逆を見てきたフロイスもまた、全く「予期のかけら」すらしていなかった「本能寺」。



信長との戦いが、いとも迅速に終結し、
同所にいた数名の若い身分ある武士も、



その際殺されてしまい、生存者が一人として
いない一方、御殿はその一切を含めて、



猛火に
包まれた。
ここでフロイスは、本能寺が「猛火に包まれた」と記載しています。
この点は、「どうやって、信長方が猛火を放った」のか?が大きな謎です。
燃えやすい木造建築であっても、そう簡単に「猛火」は起こせません。
まるで、爆発物を設置したか、或いは油を撒いたか、のように燃え立ち、「猛火」に包まれた本能寺。
この点もまた様々な想像を想起させ、多数の書籍が「本能寺の猛火」をテーマとしています。
信長が「万一の万一」に備えて、準備していたのか、どうか。
或いは、何者かが介入した、のか。
この点は、大いなる謎ですが、フロイスも記載していません。
おそらく、フロイスの情報網にも引っ掛からなかった「永遠の謎」なのでしょう。


