前回は「「完璧な計画」+「完璧な行動」実行した光秀〜明け方に本能寺へ・「思い切りが良くない」光秀と坂本城修理・曖昧な「謀反後の戦略」〜」の話でした。
光秀「信長様に立派な軍勢を見せる」:堂々と備中ではなく都へ

明智光秀お前たち(彼ら)に与えられるべき報酬は、
特にお前たちから期待される勲功と強力に全て準じ・・・



対応したものに
なるであろう。


極めて緻密に、日本の戦国時代を描いたルイス・フロイス「日本史」。
フロイスは、「本能寺」直前の光秀の言動を、「近くで見ていた」かのように描いています。



さらに明智は、自らの諸国と
坂本の城塞を固め・・・



城内を絶えず監視するように
言いつけた。
光秀が、乾坤一擲の大勝負において、「坂本城を固める」ことを命じていたことを明らかにしました。
おそらく、このことをフロイスは、「本能寺」後に確たる情報を得たと考えます。



そして、都の入る前に兵士たちに対し、
彼はいかに立派な軍勢を率いて、



毛利との戦争に出陣するか、を
信長に一目置かせたいから、とて、



全軍に火縄銃に銃弾を装填し、
火薬をセルぺ(鉄砲の部品)に置いたまま、



待機しているように、
と命じた。
本来進撃するはずの備中方面ではなく、京へ目指した明智軍。
明智軍の将兵にとっては、「どう考えても不思議」な事態であり、この点は諸説あります。



信長様に、この光秀が、
いかに立派な軍勢を率いて、



毛利との戦争に出陣するか、を
ご覧に入れるのだ!
フロイスは、こう光秀が言い放って、京都の信長の元に「堂々と向かった」と説明しています。
もちろん、フロイスは「光秀の言動を間近に見た」のではありませんが、妙にリアルです。
筆者は、この光秀の言動が最も真実に近いと考えます。



それは既に述べたように
1582年6月20日、水曜日のことであった。
フロイスは「6月20日」と語っていますが、これは日本の暦と西洋の暦の違い、と考えます。
「信長の命令で家康殺害」と考えた明智軍:本城惣右衛門覚書と根拠





兵士たちは、かような動きが
一体何のためであるか、訝り始め、



おそらく、明智は、信長の命に基づいて、
その義弟である三河の国主(家康)を



殺すつもりであろうと
考えた。
ここで、フロイスは「明智軍は、信長の命令に従って家康を殺害」と考えた点を指摘しました。
この「家康殺害と考えた」のは、斎藤利三配下の本城惣右衛門が記しています。
本城惣右衛門自身が「本城惣右衛門覚書」という回想録に、こう書いている説が有力です。
フロイスが、「家康殺害」と記録した根拠が「本城惣右衛門覚書」かどうか、は不明です。


この頃、信長から極めて丁重な接待を受け、安土で過ごした後、「堺にいた」家康。
信長公記には、信長が家康を「家康公」とまで呼んだ、と記録しています。
信長公記における、信長の家康接待に関する話を、上記リンクでご紹介しています。



このようにして、信長が
京に来るといつも宿舎としており、



既に同所から、仏僧を放逐して
相当な邸宅となっていた本能寺と称する、



法華宗の一大寺院に到着すると、
明智は天明前に三千の兵を持って、



同寺を完全に
包囲してしまった。
光秀は、光秀が本能寺を「三千の兵で包囲した」と明確に記録しています。
「本能寺」での光秀の動員を「七〜八千」と記録したフロイス。
この軍勢の数とも整合性が取れており、極めて緻密な描写です。



ところで、この事件は、市(まち)の人々の
意表をついたことだったので、



ほとんどの人には、それはたまたま起こった
何らかの騒動くらいにしか思われず、



事実、当初は
そのように言い触らされていた。
「本能寺」の際に、京都周辺にいて、自分たちも危険な状況に置かれたフロイスたち。
当時の京都周辺の「風聞」を明確に記録に残しています。
確かに、信長によって治安が「完全に保たれていたはず」の京都。
その京都で、「騒動が起こる」こと自体が、京都の民衆には「信じられないこと」だったでしょう。



我らの教会は、信長の場所から
わずか一町を隔てただけのところにあったので、



数名のキリシタンは、こちらに来て、
折から早朝のミサの仕度をしていた司祭(カリオン)に、



御殿の前で騒ぎが
起こっているから、



しばらくお待ちに
なってはいかがでしょうか。



と
言った。



そして、そのような場所であえて
争うからには、重大な事件であるかもしれない、と報じた。



まもなく銃声が響き、火が我らの
修道院から望まれた。



次の使者が来て、あれは
喧嘩ではなく、



明智が信長の敵となり、
反逆者となって、



彼を包囲したのだ、と
言った。
ここで、フロイスは、「騒動」が実は「光秀の信長への叛逆」であることを淡々と記録しました。
「本能寺」で不思議な点は、「火災で信長の遺体が完全に燃えてしまった」ことです。
この「火」に関して、フロイスの記述によると「早い時期から起きていた」ことが分かります。
すると、明智軍が「火を放った」可能性が高いことになります。
いずれにしても、当時の京都の民衆にとっては、「完全な想定外」の事態が起こり始めていました。


