前回は「「是非もなし」の信長の一言〜信長に殉じた人名の詳細な記録・信長公記に記載ない「明智軍の京侵攻先陣武将」・先陣は明智秀満か?〜」の話でした。
町中の宿舎から「本能寺に向かった」信長小姓:京都を包囲?明智軍

戦国最大の極大事件「本能寺の変」を、信長公記は丁寧に語っています。
信長公記御殿の中で討ち死にした者は、
森長定・長氏・長隆の兄弟三人・・・



小河愛平・高橋虎松・金森義入・菅屋角蔵・魚住勝七・
武田喜太郎・大塚又一郎・狩野又九郎・薄田与五郎・・・



今川孫二郎・落合小八郎・伊藤彦作・久々利亀・種田亀・
山田弥太郎・飯河宮松・祖父江孫・・・



柏原鍋兄弟・一雲斎針阿弥・平尾久助・
大塚孫三・湯浅直宗・小倉松寿。
信長に従って討ち死にした人物名を、異様なほど丁寧に記録した太田牛一。
信長公記を編纂したのは、「太田牛一の晩年、江戸初期に成立した」説が有力です。
この説が正しいとすると、本能寺の変後、20年余りが経過しています。
これらの人名等は、太田牛一は当初から記録に残し、少しずつ信長公記を作成していたと考えます。



お小姓衆は、敵勢に打ち掛かり
打ち掛かりして、討ち死にした。



湯浅直宗・小倉松寿、この二人は、
町中の宿舎で変事を知り・・・



敵勢の中にまぎれ込んで本能寺へ
駆け込み、討ち死にした。



台所口では、高橋虎松がしばらく敵勢を
押しとどめ、比類ない働きをした。
この記述も注目です。
湯浅直宗・小倉松寿の二人は、本能寺の変勃発時には、本能寺ではなく別の宿舎にいました。





信長を
討ち取るのだ!
京都に流れ込んだ明智軍は、3,000名程から1万3,000名程と諸説あります。
この点は、確たる資料がないため、「永遠の謎」となります。
筆者は、「信長公記」、ルイスフロイス「日本史」の記述から、光秀の性格を推測すると、



本能寺を攻撃し、
信長を討ち取るのだ!



そして、妙覚寺の
信忠も同時に討つ!



残りは、京都周囲を囲み、
信長を絶対に逃すな!
おそらく、「本能寺を攻める軍」、「信忠を攻める軍」、「京都包囲軍」に分けていたと考えます。
さほど広くない本能寺だけを攻めるのに、1万3,000もいても、不必要な軍が大勢発生します。
さらに、信長及び周辺の小姓衆の人数、明智軍の鉄砲隊を考慮すると「3,000で十分過ぎる」人数です。
湯浅直宗・小倉松寿の二人は、「信長への忠誠」で自ら「本能寺にわざわざ向かった」と考えます。
その一方で、すでに「京都全体が明智軍に包囲されている」状況からも、



もはや、
明智軍に囲まれている!



信長様の為に
奮戦し、お近くで死のう!
このような気持ちで、湯浅直宗・小倉松寿の二人は、本能寺に向かった、と考えます。
本能寺に「火を放った」のは明智軍か?:曖昧な日本語と真相不明





信長は、初めは弓を取り、
二つ三つと取り替えて弓矢で防戦したが・・・



どの弓も時が経つと
弦が切れた。



その後は槍で戦ったが、
肘に槍傷を受けて退いた。
この辺りは、「本能寺の変の信長」で一般に流布されている、「最後まで戦う信長」像です。
明智軍の攻撃の模様は不明点が多いですが、百名以上の鉄砲隊が銃撃したのは確実でした。
その中、信長は、最後の最後まで弓と槍で戦い続けました。



それまで傍に女房衆が
付き添っていたが・・・



女たちはもうよい、
急いで脱出せよ!



と言って、
退去させた。



すでに御殿は火をかけられ、
近くまで燃えてきた。
本能寺の辺の謎の一つは、「なぜ、信長の遺体を完全に消失するほどの火災が起きたのか?」です。
敵を攻めるのに「火攻め」は有効ですが、



信長の首を
必ず取るのだ!
確実に「信長の首」を求めたはずの明智光秀。
光秀は、「信長が死んだ証拠」が欲しかったはずです。
「金ヶ崎」などで、「疾風のように撤退した」軍神のような存在であった織田信長。
「本能寺」でも、「疾風のように逃げてしまう」可能性を、光秀は危惧していたはずです。
更に「信長を倒した」事実を世間に知らしめる為にも、「信長の首」は確実に必要でした。
この観点から考えると、「絶対に勝てる」中「火攻めにする」事は、明智軍としては禁じ手でした。
信長公記では、



すでに御殿は火をかけられ、
近くまで燃えてきた。
このように記載しており、「明智軍に火をかけられた」ような書き方をしています。
日本語の「かけられ」という言葉は、尊敬語にもとれるので、「信長周囲がかけた」とも取れます。
このあたりが、日本語の曖昧な所であり、非常に分かりづらいです。
ただ、信長公記の文章の流れをみると、どうやら明智軍が火を放ったように感じます。
この点は確実なことは不明です。
「火を放った」のが明智軍であれば、光秀は致命的大失態を犯しました。

