光秀に「切腹すべきかどうか」質した皇子〜光秀「馬や駕籠で出るな」・「本能寺三、四年前建築」の二条御所・冷静に妙覚寺から移動した信忠〜|本能寺の変11・ルイス・フロイス「日本史」27

前回は「「直ちに御殿に放火した」信長〜「毛髪も骨も全てが灰燼に帰した」信長・猛火に包まれた本能寺の謎・平穏な京での突然の銃声と大火災〜」の話でした。

目次

「本能寺三、四年前建築」の二条御所:冷静に妙覚寺から移動した信忠

New Historical Voyage
ルイス・フロイス「回想の織田信長」(新歴史紀行)
Frois

我らが知っていることは、その声だけでなく、
その名だけで、万人を戦慄せしめていた人間が、

Frois

毛髪といわず、骨といわず灰燼に帰さざる
ものは一つもなくなり、

Frois

彼のものとしては地上になんら
残存しなかったことである。

当時の日本の覇王であった、織田信長。

信長は、本能寺で完全に消滅してしまいました。

Frois

既に都では、次第に事件が明らかとなり、
駆けつけた数名の殿は、内部に入ることを望んだが、

Frois

兵士たちが街路を
占拠していたので、それが叶わず、

Frois

嗣子(信忠)の邸宅(複数)に向かって
引き返して行った。

現在よりもはるかに小規模であった、戦国時代の京都。

そこに、明智軍八千程度(フロイスによる)が、乱入したため、道路という道路は占拠されました。

新歴史紀行
織田家後継者 織田信忠(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
Frois

彼がこの報告に接した時には、
まだ寝床の中にいたが、

Frois

急遽起き上がり、宿舎にしていた
その寺院(妙覚寺)は安全ではなかったので、

Frois

駆けつけた武士たちと共に、
近くに住んでいた

Frois

内裏(正親町天皇)の息子(皇子誠仁親王)
の邸(二条御所)に避難した。

織田信忠

これより、皇子誠仁親王
おわする二条御所へ向かう!

突発した、超緊急事態にも関わらず、織田信忠一同は、比較的冷静に事態に対処しました。

Frois

その邸は、天下において、安土に
次いで比べるものがないほど美しく豪華であり、

Frois

信長が、三、四年前に建築し、
内裏の世子を住まわせるために彼に与えたものであった。

ここでも、フロイスの「数値にこだわる」姿勢が明確です。

二条御所は、信長入京後の早い時期に建築した、と思われます。

「本能寺」で信忠一行が籠城することになった二条御所は、「三、四年前建築」でした。

つまり、1578年から1579年頃、安土城とほぼ同時期に完成した、まだ新しい建築でした。

光秀に「切腹すべきかどうか」質した皇子:光秀「馬や駕籠で出るな」

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上から反時計回りに、明智光秀、織田信長、織田信忠(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)
Frois

信長の嗣子は、同所に身を寄せたが、
事件があまりにも急であったので、

Frois

彼も彼に従った者も
腰の大小の刀以外には何ものも携えておらず、

Frois

同所は武器などを使用することがない、
内裏の世子の邸であったから、

Frois

武器などあろうはずがなく、
婦女以外には誰もいなかったので、

Frois

このような来客は、皇子にとっては
相当な重荷であったに違いない。

まだ新築で、ピカピカだった二条御所は、「武器が御法度」の神聖なエリアでした。

そのため、当時の一定規模以上の建築に備えられていたであろう武器すらなかった二条御所。

織田信忠

そうか・・・
ここには武器はないか・・・

おそらく、信忠一行もまた、「武器がない」ことに落胆したでしょう。

Frois

信長の嗣子と共に
都の所司代である村井貞勝殿がいたが、

Frois

その進言に従って、
内裏の息子は馬に跨ったまま、

Frois

外側の街路にいた明智の許へ
使者を派遣し、

皇子誠仁親王

自分は、いかになすべきか、
切腹すべきかどうか。

Frois

を質した。
明智は、

明智光秀

殿下に対しては、何もしようとは
思っておらず、

明智光秀

直ちに同所から
出られるが良いと思う。

明智光秀

ただし、信長の息子、城介殿が
逃亡することがあってはならぬから、

明智光秀

馬や駕籠で出ることが
ないように。

Frois

と答えた。
内裏の息子は、この報告に接すると、

Frois

その女たちと共に
彼の父の邸に入るため、上京に向かった。

二条御所にいた皇子誠仁親王の話もまた、様々な書物で「本能寺」の一つの場面として様々語られてきました。

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信長公記(太田牛一著、中川太古訳、新歴史紀行)
信長公記

信忠は、

織田信忠

ここは戦場になりますので、東宮様・若宮様は
内裏へお移りになさった方が良いでしょう。

信長公記では、信忠が「内裏に移ることを進言した」と記載しています。

二条御所にいた皇子誠仁親王を描く、信長公記の話を上記リンクでご紹介しています。

フロイスの記載は生々しいですが、天皇の後継者である皇子が、

皇子誠仁親王

自分は、いかになすべきか、
切腹すべきかどうか。

こう尋ねるのは不思議な点でもありますが、当時の超緊急事態では、このようなこともあったでしょう。

皇子誠仁親王(架空)

あ、明智が
謀反、だと・・・

皇子誠仁親王(架空)

明智は、信忠を
逃しはしまい・・・

皇子誠仁親王(架空)

このままでは、この二条御所の
中にいる私たちも殺されてしまう・・・

混乱の最中に、「殺される」大いなる危険を感じた皇子誠仁親王。

皇子誠仁親王(架空)

我らは、
どうすべきか?

皇子誠仁親王(架空)

明智軍は、我らをも
殺すつもりか?

皇子誠仁親王(架空)

いや、明智は天皇家を重んじているから、
我らを害することはなさそうだ・・・

皇子誠仁親王(架空)

まずは、こちらから使者を出して、
明智の意図を確認しよう・・・

このように考えて、「まずは明智に使者を派遣」は、大いにありうると考えます。

信じられない事態であったはずの「本能寺」において、様々な人物は比較的落ち着いて行動しました。

それは、「何が起こるか分からない」戦国時代を生きていた者たちの生き様だったのでしょう。

新歴史紀行

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