上杉謙信 7〜長尾景虎の越後統一〜|戦国武将

前回は「上杉謙信 6〜関東管領上杉政虎 4〜」の話でした。

上杉 謙信(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

越後守護代だった長尾家から、関東の超名門・関東管領家である上杉家を継いだ長尾景虎。

後世、実利的な織田信長や武田信玄と比較すると、「野心なき正義の武将」と形容される景虎。

その景虎が「当時どのように権威に対して考えていたのか」を考えてみます。

景虎が春日山城に入城し、正式に守護代長尾家を相続したのは、1548年です。

この時、景虎はわずか19歳でした。

越後国は、揚北衆はじめ反乱分子が国内に散っており、難治の国でした。

最初は、景虎の父 為景から家督をついだ、景虎の兄 晴景。

しかし、立て続けに勃発する国内の反乱を押さえきれず、

私では無理だ・・・

弟・景虎よ。
あとは任せた。

お任せ下さい。
兄上。

景虎(のちの謙信)が、越後守護代となった経緯は、このような複雑なものでした。

上杉謙信:越後統一(歴史群像シリーズ 戦国合戦大全 学研)

家督をついだ1548年は、ようやく北方の揚北衆を従えたものの、従兄弟の長尾昌景が反抗している状況でした。

その中、

押せ、押せ!

若き景虎は、自ら陣頭に立って、戦いを乗り切り、1551年頃にようやく越後国内統一に至ります。

景虎が越後守護代となる2年前の1546年、6歳年上の足利義輝が第十三代将軍に就任します。

室町幕府第十三代将軍 足利義輝(Wikipedia)

応仁の乱以後、京都は戦乱の世にあり、大混乱でした。

義輝が将軍に就任するも、実権を握っていたのは、管領 細川晴元でした。

そして、細川晴元に対抗する存在だったのが三好長慶です。

戦国大名 三好長慶(Wikipedia)

この頃、三好長慶は兄弟たちの尽力や松永久秀の力もあり、猛烈に力をつけてきた頃でした。

戦国大名 松永 久秀(Wikipedia)

後に将軍義輝を、殺害に追い込んだと言われる松永久秀(諸説あり)。

素性が全く定かではなく、完全な成り上がり者と言われます。

その点では、羽柴秀吉と「素性定かでない双璧」とも言える存在の松永。

戦国時代という乱世だからこそ、松永のような人物が「のし上がれた」とも言えます。

当時、足利将軍家の権威は落ちており、将軍義輝は三好長慶に攻め込まれて、逃げ出す有様でした。

管領 細川晴元と三好長慶の戦いに翻弄され続ける、将軍足利義輝。

義輝は一時的に、京を脱出して近江朽木谷に逃れて、亡命生活を強いられます。

後に、織田家と浅井・朝倉家が戦い、信長が辛くも退却した金ヶ崎退却戦。

この時、信長に同行していた松永久秀が、朽木谷の領主 朽木元綱を仲間にして、信長の退却を助けます。

危なかった・・・

いつ戦死してもおかしくない状況にあった、足利将軍家。

この頃、1553年に長尾景虎は上洛します。

上洛だ!

足利家を
お守りするのだ!

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