前回は「上杉謙信 6〜関東管領上杉政虎 4〜」の話でした。

越後守護代だった長尾家から、関東の超名門・関東管領家である上杉家を継いだ長尾景虎。
後世、実利的な織田信長や武田信玄と比較すると、「野心なき正義の武将」と形容される景虎。
その景虎が「当時どのように権威に対して考えていたのか」を考えてみます。
景虎が春日山城に入城し、正式に守護代長尾家を相続したのは、1548年です。
この時、景虎はわずか19歳でした。
越後国は、揚北衆はじめ反乱分子が国内に散っており、難治の国でした。
最初は、景虎の父 為景から家督をついだ、景虎の兄 晴景。
しかし、立て続けに勃発する国内の反乱を押さえきれず、
私では無理だ・・・
弟・景虎よ。
あとは任せた。

お任せ下さい。
兄上。
景虎(のちの謙信)が、越後守護代となった経緯は、このような複雑なものでした。


家督をついだ1548年は、ようやく北方の揚北衆を従えたものの、従兄弟の長尾昌景が反抗している状況でした。
その中、



押せ、押せ!
若き景虎は、自ら陣頭に立って、戦いを乗り切り、1551年頃にようやく越後国内統一に至ります。
景虎が越後守護代となる2年前の1546年、6歳年上の足利義輝が第十三代将軍に就任します。


応仁の乱以後、京都は戦乱の世にあり、大混乱でした。
義輝が将軍に就任するも、実権を握っていたのは、管領 細川晴元でした。
そして、細川晴元に対抗する存在だったのが三好長慶です。


この頃、三好長慶は兄弟たちの尽力や松永久秀の力もあり、猛烈に力をつけてきた頃でした。


後に将軍義輝を、殺害に追い込んだと言われる松永久秀(諸説あり)。
素性が全く定かではなく、完全な成り上がり者と言われます。
その点では、羽柴秀吉と「素性定かでない双璧」とも言える存在の松永。
戦国時代という乱世だからこそ、松永のような人物が「のし上がれた」とも言えます。
当時、足利将軍家の権威は落ちており、将軍義輝は三好長慶に攻め込まれて、逃げ出す有様でした。
管領 細川晴元と三好長慶の戦いに翻弄され続ける、将軍足利義輝。
義輝は一時的に、京を脱出して近江朽木谷に逃れて、亡命生活を強いられます。
後に、織田家と浅井・朝倉家が戦い、信長が辛くも退却した金ヶ崎退却戦。
この時、信長に同行していた松永久秀が、朽木谷の領主 朽木元綱を仲間にして、信長の退却を助けます。



危なかった・・・
いつ戦死してもおかしくない状況にあった、足利将軍家。
この頃、1553年に長尾景虎は上洛します。



上洛だ!



足利家を
お守りするのだ!